蔵鋒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:27 UTC 版)
黄庭堅の起筆は篆書を思わせるような蔵鋒の打ち込みが多い。この起筆における篆隷の筆意は重要な意味をもち、黄庭堅が50歳のとき草書三昧を得たというのも鋒鋩の露わし過ぎの発見であった(『山谷題跋』「書自作草後」)。彼は秦漢の篆隷に遡って学究した結果として、古人の用筆と筆意を悟ったのである。清末の康有為は、「宋人の書の中では、自分はもっとも山谷を愛する。鬱抜(うつばつ)の気を蔵し、筆法は痩勁(そうけい)で、篆書に来源している。」(『広芸舟双楫』)と評している。 楷書の大家・欧陽詢の用筆法は鋒鋩を出すのが特色の一つであるが、この欧陽詢の『草書千字文』がある。やはり露鋒の用筆による草書で、この拓本の末尾に黄庭堅の年少のときの師・周越の跋があることから、黄庭堅もこの書から少なからずの影響を受けたと考えられる。この『草書千字文』の特徴について比田井天来は、「楷書に鋒鋩を出す用筆法を以て直ちに草書に適用すれば、このように軟弱になるのが当然であるから、欧の書たることは疑いあるまい。」(『天来翁書話』)と述べ、また、比田井南谷は、「この書は軟弱な点はあるが、一種独特な表現があって、日本にも朝鮮にもこの特徴ある草書が学ばれた形跡がある点から見ると、当時においては、この体が清新な書風の一つであったと考えられる。」と述べている。 このような書風の草書について黄庭堅は戎州時代に、「近頃の士大夫は、古法を会得しているものはほとんどなく、ただ筆を左右にもてあそんで、それを草書と言っているだけである。草書は実は、科斗・篆・隷と法を同じくし、意を同じくするものであることを知らないのである。」と論じている。続いて、「数百年来、ただ、張長史と懐素とわたくしの3人だけがこの法を悟っている。」(『山谷題跋』「跋此君軒詩」)と述べているように、黄庭堅は戎州時代すでに草書の分かるのは張旭と懐素と自分だけであるという境地に到達したのである。張旭と懐素が狂草で有名なのは周知のとおりであるが、黄庭堅は懐素の狂草体の代表作『自叙帖』を観て草書の妙を悟ったといわれている。
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