戎州時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 14:27 UTC 版)
戎州へ移る際、「黔州での書は、意は尽くされていたが用筆が及ばなかった。戎州へ来て、通りかかりの舟の中で、長年訓練された船頭が舟を漕ぐのを見て少し書が進むのを覚えた。これからのちは意のままに用筆が伴ってきた。」(『山谷題跋』巻9「跋唐道人編余草藁」)という。この悟得の仕方は、張旭が剣器を舞わすのを見て筆法の神髄を得たこと、また懐素が夏雲の風にたなびくのを見て草書三昧を得たことと酷似しているが、黄庭堅と張旭・懐素の両人には大きな違いがある。それは張旭と懐素は酒の酔いに乗じて書いていた点で、この点に関する黄庭堅の論述はないが、蘇軾はこれを重視しており、「張旭の草書は、いつも酒に酔ってから書き、酔いが醒めるとその天真さが十分現れなかった。これは張旭が至妙の域に達していないからである。(趣意)」と述べている。続いて、「王羲之は、はたして酒に頼るということがあったであろうか。私もまだこのことから抜け出せないでいる。」(「書張長史草書」)と、張旭同様、蘇軾自身も酒の作用がなければその境地に達しないことを述べている。これに対し、黄庭堅は常に酒に頼ることなく、努力を重ねたのである。
※この「戎州時代」の解説は、「伏波神祠詩巻」の解説の一部です。
「戎州時代」を含む「伏波神祠詩巻」の記事については、「伏波神祠詩巻」の概要を参照ください。
- 戎州時代のページへのリンク