戎橋松竹と戦後の上方演芸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 16:15 UTC 版)
「日本ドリーム観光」の記事における「戎橋松竹と戦後の上方演芸」の解説
戦後、上方落語の復興を目指し5代目笑福亭松鶴らが定期落語会を催していたのを、松竹および千土地会長の白井松次郎が着目し、四ツ橋・文楽座で松竹主催の落語会を興行したところ概ね好評だった。白井は戦前から演芸進出を企み、一時期傍系の新興キネマに演芸部を設けて演芸王国の吉本興業に対抗していたが、戦後は吉本が演芸から撤退していた事もあり、「上方演芸復興」を旗印として漫談家・花月亭久里丸を中心に芸人を掌握。1947年、千土地が経営する映画館・戎橋松竹を演芸場に改装して、演芸興行を開始した。 1957年に戎橋松竹を閉鎖。代わりに同年大阪歌舞伎座地下の映画館を改装して、歌舞伎地下演芸場を開場したが、これも翌1958年大阪歌舞伎座の改装と共に閉鎖。この時までに出演していた芸人の多くは、所属事務所の関係で道頓堀角座に出演する事となり、残された千土地専属の芸人は京都・新京極にあった映画館・京洛劇場を演芸場に改装の上出演した後、千日デパート6階に完成した千日劇場に出演する事になった。千日劇場は1969年まで営業を続けたが、吉本・松竹芸能の台頭と引き替えに衰退し、千日劇場閉鎖と共に日本ドリーム観光は演芸から撤退した(戎橋松竹の項を参照)。
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