日本女子大学校時代
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1915年4月にトシは東京の日本女子大学校家政学部予科1年生となり、学生寮「責善寮」で寄宿生活に入った。この進学は、父の女子教育への理解や在学中の叔母の勧誘に加え、前記の恋愛事件でトシが「この苦しい学校と郷里からのがれ度い」(『自省録』)という意思を抱いたこととの関連も指摘されている(妹2人は高等女学校が最終学歴だった)。後述する近角常観宛の手紙(1915年5月29日付)には「とにかくあらゆる心配苦労を親にかけ、親を涙させるような事をして、三月の末、或る意味の敗北者として、故郷を離れ、のがれて参りました」という記述がある。 入学直後の1915年4月には、父から紹介された浄土真宗僧侶の近角常観に、「将来に対する希望を持てない」という倦怠感の悩みを伝える手紙を送って面会し、5月29日には面談や読書(近角の著書)を経てもなお悩みを脱しきれないことを改めて近角に書き送った。後者の手紙で予告した5月30日にトシは近角の元に赴いたと推測されるが、以降の訪問の記録はない。一方で、トシは日本女子大学校創立者の成瀬仁蔵が伝える理念に共鳴していった。 当時の日本女子大学校では、成瀬自身が講義する「実践倫理」の科目が年間を通じた全学年の必修とされ、寮生活などで瞑想・黙想する時間が設けられていた。成瀬はクリスチャンではあったが、単一の宗教宗派に依存せず、すべての宗教の「其の元に存するところの生命」「宇宙の意志(精神)」を学生に伝える教育を実施していた。トシは『自省録』において、在学中を含む「此の四五年来私にとって一番根本な生活のバネとなったものは『信仰を求める』と云ふ事であつた」と記し、成瀬による教育方針に感化を受けていたことが指摘されている。 1916年、家政学部本科1年となったときに各学生が決意を言葉で示す「宣誓式」で、トシは「真実為勇進」(真実の為の勇進)という文字を記した。この年7月、来日したインドの詩人ラビンドラナート・タゴールを成瀬が日本女子大学校に招いて講演会を開き、トシもそれに参加したと推測されている。また、病床にあった祖父・喜助に対して、「死後の魂」の存在とそのためにいかに生きるべきかを説く内容の手紙を送っている。1916年12月に学校に提出した「自己調書」には「徹底せずとは云え、信念生活を考え、行わんとすることによりて、利己主義、又、怯懦なる習慣は改められつつあり」という記述(原文はカタカナ・歴史的仮名遣い)が見られる。3年生の1917年9月に喜助が死去し、トシは「我を忘れて亡き祖父の為にたとへ片時でも祈る事の出来た事は実に幸福であった」「人生の問題の最も大きな一つたる死にまのあたり逢った思いがし、真剣になる事が出来た」と記した。 4年生となった1918年には6月頃に呼吸器系の疾患で休養していたことが手紙よりうかがわれる。その後健康を回復して、軽井沢で毎年最高学年を対象に開かれていた日本女子大学校の夏期寮(成瀬自身も参加。成瀬の参加はこの年が最後となる)を受講。1学期には寮の「主婦」(寮全体の生活を統括する係)も務めている。11月には流行中のスペインかぜに罹患したが、4日ほどの休養で全快したと手紙に記している。この時期、賢治に送った手紙(現存する唯一の賢治宛書簡)には、卒業論文の相談や「天職」を見出したいといった将来についての意見が見られる。年末年始は帰省せずに勉強する希望を持っていたが父から帰省を申しつけられた矢先、12月20日に東京帝国大学医科大学附属医院分院(通称:永楽病院)に入院する。母のイチと賢治が看病のために上京し、賢治は翌年3月まで下宿しながら看病をした。主治医は二木謙三だった。病状は当初チフスが疑われたが、実際には風邪もしくは肺炎であった。3月3日に母と賢治、叔母に付き添われて花巻の実家に帰郷する。入学以来トップの成績を維持したことが評価されて見込点で卒業が認められた。卒業証書は寮監が3月29日に花巻まで持参した。
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