日本女性初の米国法学博士号取得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:20 UTC 版)
「松岡朝」の記事における「日本女性初の米国法学博士号取得」の解説
日本で1年をすごしたのち、朝は再び渡米し博士号取得に備えることとなった。指導教官の尽力でフェローシップを受けることができ、学費の心配がなくなった朝は2年間研究に没頭した。博士号の最終試験である口頭試験は、12人の試験官から4時間にも及んだが、「今年最高の試験結果」というコメントと共に試験合格の結果が即日朝に伝えられた。 しかしながら、試験には合格したものの、実際の博士号は大学図書館に論文の印刷物を75冊分納入してから以降になると、大学の学長秘書より朝に連絡があった。朝の博士論文はアメリカ連邦政府の労働省より政府刊行物として出版したい旨申し出があったが、その刊行に1年がかかるため、朝は博士号を得るまで追加で1年アメリカに在留することとなった。この1年間、朝はマサチューセッツ州スプリングフィールド市立ジョージ・ウォルター・ヴィンセント・スミス博物館(英語版)からの招聘を受け、日本部主任として勤務し日本の美術品の分類と評価を担当した。 1年後の1932年(昭和7年)2月、朝の論文 "Law and Regulations for Protective Labor Legislation for Women and Children in Industry Japan"(邦題「日本における労働婦女子の保護法について」)はアメリカの政府刊行物第558号として、労働省より刊行され、条件が整い朝はコロンビア大学の法学博士号を得た。日本人女性として史上初のアメリカ法学博士号授与者であり、また同時にアメリカ政府刊行物として自著が発行されたという点でも日本人女性として初めての快挙であって、遠く日本でも新聞各紙で報道された。朝は39歳になっていた。
※この「日本女性初の米国法学博士号取得」の解説は、「松岡朝」の解説の一部です。
「日本女性初の米国法学博士号取得」を含む「松岡朝」の記事については、「松岡朝」の概要を参照ください。
- 日本女性初の米国法学博士号取得のページへのリンク