日本女子体育連盟の創設
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戸倉は第2回国際女子体育会議(パリ)に出席し、いつかこの会議を日本に招致したいという思いを抱いて日本に帰国した。そのためにはまず、日本国内の女子体育の組織と研究を充実させる必要があると考え、1954年(昭和29年)8月に日本女子体育連盟を創立した。翌1955年(昭和30年)に役員を選出し、会長に戸倉、副会長に伊沢ヱイ、理事長に竹内菊枝が就任した。 続いて日本女子体育連盟は1954年(昭和29年)に卒業論文発表会と夏季女子体育講習会を開始し、『世界女子体育の動向』(1961年、NCID BA48711635)、『学校ダンスの指導法研究』(1962年、NCID BN12010539)、『女子体育の研究資料抄録』(1963年、NCID BA74432730)を立て続けに刊行した。1965年(昭和40年)には第1回全国女子体育研究大会を開催し1,200人の参加者を集め、1966年(昭和41年)11月15日には連盟が社団法人に認可された。こうして日本の女子体育界をまとめ上げ、国際女子体育会議東京大会の下地作りを整えたところで戸倉は病に伏し、大会の開催を見届けることなく死去した。 この間、国際女子体育会議には第3回(ロンドン、1957年)に5人、第4回(ワシントン、1961年)に15人、第5回(ケルン、1965年)に40人と日本人参加者が増えていった。戸倉はこのすべての会議に出席した。
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