日本での運航
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日本の航空会社では東亜国内航空(後の日本エアシステム)と佐川急便グループのギャラクシーエアラインズがA300を採用した。東亜国内航空は日本エアシステム時代から日本航空との統合後まで含めて、A300B2Kを9機、A300B4を8機、A300-600Rを22機と延べ39機を運航した。ギャラクシーエアラインズはA300-600Rの貨物型を2機運航した。そのほか、大韓航空やタイ国際航空、フィリピン航空、中国の航空会社などが日本への国際便にA300を用いた。また、パンアメリカン航空はアジア路線にA300を投入し日本へも乗り入れていた。 A300は東亜国内航空の初のワイドボディ機となり、同時に日本の航空会社が導入した最初の欧州製ジェット旅客機となった。日本のローカル国内線を中心に運航していた東亜国内航空はDC-9の次に導入する大型機の選定にあたり、主にA300とDC-10を比較検討した。その結果、DC-10ほどの大きさや航続距離性能は不要とされ、双発で整備性・経済性に有利で地方空港の2,000メートルの滑走路でも離着陸できる機材としてA300B2Kが選定された。実績の無い欧州製で世界初の双発ワイドボディ機の導入ということで心配する声もあったが、事前調査の上で1979年5月に最初の受注契約が交わされた。初納入に先立つ1979年11月、入間基地で開催された国際航空宇宙ショーにエアバス・インダストリーはA300のデモ機を出展した。この時の機体はエアバスのコーポレートカラーであるレインボーカラーに「東亜国内航空」とペイントされており、これを見た東亜国内航空の役職員が感激し、同社の機体塗装にレインボーカラーを譲り受けることとなった。 東亜国内航空への初引き渡しは1980年10月で、翌年3月に羽田 - 鹿児島線で初就航した。その後、ワイドボディ機でありながら滑走路長が2,000メートルの地方空港へも就航できる離着陸性能を活かし羽田と北海道、東北、九州を結ぶ路線に相次いで投入されローカル路線網の充実に貢献した。増加する旅客数に対応し、A300B2Kに続いてA300B4を追加発注しようとしたが、当時既にA300-600の生産に移行していたことから新造機では数を揃えられず海外の航空会社から中古機を買い集めた。また、1988年4月には東亜国内航空は日本エアシステムへ社名変更し、その年の7月に同社初の国際定期便となる成田 - ソウル線が開設されA300B4が就航した その後、日本エアシステムは、輸送力の強化と国際線へも就航できる機材としてA300-600Rの導入を決め、1991年4月に最初の機体を受領した。この時のA300-600Rは第1世代の後継というより機材増強の側面が強く、第1世代は主に国内線、A300-600はアジア地域への国際線の強化に振り向けられた。日本エアシステムは東亜国内航空時代からA300の定時出発率99.5パーセント以上を維持し、エアバスから最優秀運航者として2度表彰された。 日本エアシステムが日本航空と経営統合した後もA300は引き継がれたが、第1世代機は2002年から引退が始まり、2006年3月31日に運航を終了した。第1世代は予め引退が計画されていたため統合後もレインボーカラー塗装で運用された。一方のA300-600Rは新しい日本航空の塗装に塗り替えられ国内線で運航された。2008年のリーマン・ショックをきっかけに日本航空は経営難に陥り、再建策の一環として機種整理を行いA300-600Rも引退することとなった。当初の引退予定は2011年3月だったが、その月の11日に発生した東日本大震災を受けて被災した東北への輸送力増強に充てられたことで引退は一旦延期され、5月31日の青森発羽田行きの便をもって運航を終えた。 ギャラクシーエアラインズは2005年5月に佐川急便が設立した貨物専門航空会社で、A300-600Rの中古機を改造した貨物機を導入し、翌年10月に羽田と北九州ならびに那覇空港間で運航を開始した。2007年4月には新造機で2機目を導入し、新千歳と羽田ならびに関西国際空港間でも就航も開始した。しかし、燃料費高騰や機材の不具合により運航・整備コストがかさみ、当初計画より大幅な赤字となり2008年8月に事業停止と清算を決定し、同年10月に全路線を廃止した。
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日本での運航
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青函航路の高速化を図るため、旧・東日本フェリーは1990年から1996年までジェットフォイル、1997年から2000年までウォータージェット小型フェリー(船名はいずれも「ゆにこん」)を導入した。しかし、燃費がかさむことや波浪への弱さ、曳き波による漁業被害、およびトラックを積載できないことによる低収益性などの理由により運航が中止されていた。ナッチャンReraの建造にあたり、新・東日本フェリーおよび親会社のリベラホールディングス(現・リベラ)では、インキャット社とともに風洞実験などを行い過去の問題点を精査し、本船の安定した運航に一定のメドを得たとしていた。しかし、運行開始後、前述の曳き波による漁業被害が再発し、漁民らは速度を落とすよう求めていた。 青函トンネルの開通以降、青函間の旅客輸送の多くは鉄道が担っているが、ナッチャンReraは鉄道と比して、青森-函館間において所要時間やエコノミークラスの運賃の安さの点で優位に立つことから、今後の巻き返しがなるか注目されていた。弘南バスの青森上野号や一時期の十和田観光電鉄のブルースター号(国際興業バスと共同運行していた時期)の夜行バスとの連携も積極的に進めていた。一方で、在来船の2倍以上となる運賃や、ファーストクラスでも横になれないなど在来船との差も残った。車両輸送の運賃格差は旅客輸送以上に影響が大きく、就航直後には減便された在来船で車両航送の満車が頻繁に発生した。 2008年11月末をもって運航会社の東日本フェリーは国内フェリー事業から撤退し、これにより多くの航路が運航を休止したが、当船は同社の撤退に先立つ同年11月1日をもって、僚船のナッチャンWorldとともに定期運航を休止した。こののち、ナッチャンWorldが夏期限定ながらも青函航路に復活運航を果たしたのに対し当船にはそういった動きはなかったが、東日本フェリーを吸収合併した津軽海峡フェリーによって、2010年7月に係船地変更のため室蘭港へ回航された後、船内見学会やミニクルーズが実施された。
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