日本での選手生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:36 UTC 版)
大会後に転機が訪れた。たまたまチームを訪れた日本人が、壁に貼ってあった石川のポスターを見て、知人を介して日本への留学を持ちかける。すでにボリビアで高校を卒業していたが、母親の強い勧めもあって、1988年、埼玉県の武南高校に3年生として編入した。日本語の読み書きもままならず、生活習慣への対応に苦慮しながら、1年間の高校生生活を送り、サッカー部員として活躍。チームメイトの池田太、川合孝治らと共に、1988年の高校総体でベスト4。優勝候補として出場した高校選手権では切り札として期待され、ベスト8進出に貢献した。 高校卒業後は当初ボリビアに戻りサッカーを続けることを考えていたが、当時ホンダの監督であった宮本征勝の勧誘と、出稼ぎに日本に来ていた父親の強引ともいえる後押しがあり、本田技研工業サッカー部に入部した。ただ最初は本田技研とプロ契約を結べず、社員として入社。六畳一間の寮に暮らし、午前中はオートバイの組み立て作業、午後に練習という生活だった。 本田技研での活躍により、1989年からはバルセロナ五輪代表(U-23日本代表)に選出され、1991年から1992年に行われたバルセロナ五輪予選ではリベロを務め中心選手として代表を牽引した。 また同年4月4日のスパルタク・モスクワ戦で日本代表デビューを飾っているが、この試合は国際Cマッチ扱いとなっており、Aマッチの出場経験はない。この後、オフト、ファルカン、加茂周といった代表監督からも日本代表合宿への招集を受けたが、キャップ数を伸ばすには至らなかった。 一方で、1995年、コパ・アメリカ1995へ出場するボリビア代表チームから招集の打診があったが、これを断っている。この当時は、国際サッカー連盟(FIFA)の選手国籍変更規定が不明確で、U-15・U-17ボリビア代表で試合に出場した石川が日本代表の国際Aマッチに出場できるかは、はっきりとしていなかった。 1992年、日本で本格的なプロリーグが始まるのを見通して読売クラブ(当時)へ移籍。Jリーグ初期におけるヴェルディ川崎の右サイドバックとして活躍し、数々のタイトル獲得に貢献した。1998年に名古屋グランパスエイトにレンタル移籍、翌1999年に完全移籍。2002年に現役引退した。名古屋在籍時には一時、「康」から「巧」へと名前の漢字を変えている。
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