Jリーグ初期
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1986年、プロ化に向けた話が始まり準備を進める中、親会社であるマツダが業務不振からJリーグ参入に消極的な姿勢を取っていた。そこでチーム名に企業名が入らないことを逆手に取り、広島県内の企業にチームへ出資して貰うために走り回った。1992年Jリーグ創設でサンフレッチェ広島が発足すると取締役強化部長兼・総監督に就任。 この間、後に日本代表となる森保一ら若手の育成、ドイツ・ブンデスリーガでプレーしていた風間八宏をチームリーダーとして熱心に口説き入団させ、盧廷潤やイワン・ハシェックらの外国人選手やスチュワート・バクスター監督らの招聘、フジタ工業(現・湘南ベルマーレ)にいた高木琢也の獲得などで、Jリーグ創設2年目のファーストステージを制覇した。「サンフレッチェ一家のおおらかな親分」のような存在で、大きなガタイはいかにもエネルギッシュ、また面倒見のよさでまわりや選手達にも信頼された。 ノーマークの西端のチームの優勝は、驚きを持って迎えられ、当時はまだ爆発的サッカー人気が持続していたため、総監督として長年チーム作りに尽力した今西が「ゼネラルマネージャー」と称されTV、雑誌に大いに取り上げられた。サンフレッチェ優勝を伝えた1994年の『Sports Graphic Number』7月7日号(6月7日発売)のコラムに富樫洋一が「今西は、チーム強化の全権を握るゼネラル・マネージャーである」と書いている他、写真週刊誌『FLASH』6月28日号9頁にも、今西を「ゼネラルマネージャー」と紹介した記述が見られる。日本で「ゼネラルマネージャー」という言葉が定着したのはこの時からとされ、近年サッカー専門誌も今西を「日本におけるゼネラルマネージャーの元祖のような存在」「日本の元祖ゼネラルマネージャー」と評している。
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