日本:幕末の動乱とは? わかりやすく解説

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日本:幕末の動乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 20:57 UTC 版)

八戸事件」の記事における「日本:幕末の動乱」の解説

日本江戸時代通じていわゆる"鎖国"政策堅持しており、琉球朝鮮以外の国とは国交を持たなかった。日清間には正規外交関係存在せず長崎唐人屋敷舞台清国商人日本商人との間で制限貿易が行われていた。一方朝鮮とは国交持ち将軍代替わりごとに朝鮮から通信使が派遣される関係にあった。 しかし1854年日米和親条約締結されいわゆる鎖国体制終了以来西洋諸国条約を結び、近代的な世界システムへの参入図られるうになるその中で欧米か知識得て軍備強化する動き確かに見られた。しかし上記八戸記事載るような朝鮮征伐計画は全く存在しておらず、記事が語る当時日本状況も、はなはだ不正確である。もっともすべてが虚偽なのではなく、以下のようにある程度事実と見られる部分もある。 日本政府江戸幕府)が軍制改革していること 幕府文久の改革1862年)で西洋式兵制導入試みており、さらに慶応3年1867年)からはナポレオン3世から派遣されフランス軍事顧問団指導により、陸軍兵制改革を行う。ただし記事出た1866年末の時点でまだ改革途上にあり、成果出ているとは言い難い状況にあった。現に同年には諸藩共同長州藩攻め込んでいるが(第二次長州征伐)、各地連敗続け結局失敗終わっている。 兵器や軍艦を購入・製造していること 確かに当時幕府のみならず有力諸藩英仏米などから武器軍艦購入していた。ただし艦の多く洋式帆船輸送船であり、この時点蒸気軍艦幕府ですら蟠竜丸朝陽丸など10隻に満たず薩摩藩長州藩などの有力諸藩のものを合わせても、記事でいう「80隻」には遠く及ばないまた、国産蒸気軍艦いたって石川島造船所建造した千代田形がようやく1866年竣工したばかりであり、それすら量産見込み立っていなかった。 ロンドンへ若者14名を留学させたこと 記事にある通り幕府慶応2年1866年)に英国留学生派遣している。林董中村正直外山正一菊池大麓14名で、すでに蕃書調所などで英語を学んでいた者もあり、この部分記述については八戸記事は正確である。 中浜万次郎を上海に派遣して船を購入させたこと 土佐漁民出身で、漂流したアメリカから帰国した中浜万次郎ジョン万次郎)は、嘉永6年1853年)に旗本取り立てられ幕臣として活躍していた(ただし記事あるような「督理船務将軍」などという職は存在しない)。記事にある通り1866年中浜土佐藩後藤象二郎英国商人グラバーとともに上海赴いて軍艦を調達している。ただし八戸記事異なり上海建造したではなく出来合英国帆船購入したのみであり、それも幕府所有ではなく土佐藩の船(夕顔丸)となっている。 以上のように、わずかに事実と見られる部分についても、誤認虚偽内容多く含まれており、正確なのは英国留学生に関す部分のみと言ってよい。そのほか幕府260諸侯結集して外征ようとしているなどは、同年幕府が行った第二次長州征討で、薩摩藩などが出兵要請拒否し幕府諸藩連合軍長州藩敗北、さらに7月将軍徳川家茂急死し徳川慶喜徳川宗家のみを継承するも、将軍職就任拒否する同年12月就任)など、幕府統制破綻しつつあった日本国内の状況が全く顧みられていないのであるまた、朝鮮5年1度日本朝貢していたという記述は、朝鮮通信使のことを指すと思われるが、これは建前上はあくまで信(よしみ)を通ず対等な外交使者であった。ただし日本側はこれを朝貢使節と見なそうとする傾向があり、国内においては幕府から諸大名へ「朝鮮入貢」と通達しており、朝鮮側紛争避けるためそれを黙認していた(詳細朝鮮通信使#江戸時代朝鮮通信使参照)。さらに江戸時代後期国学水戸学普及により、古代神皇后三韓征伐等の逸話親しまれるにつれ、朝鮮対す蔑視軽視が進むようになり、後述書契問題征韓論連なっていく。八戸記事は、こうした朝鮮対す当時日本側の見方反映したものと見られる。しかし通信使が1811年以来久しく途絶していた主因日本側の財政難にあり(後述)、八戸記述事実とは異なる。 実際にはこの時期日本から朝鮮への働きかけとして、攻撃仕掛けどころか、むしろフランス・アメリカとの紛争抱えていた朝鮮後述)に対し調停・仲裁労をろうとしていた。対馬藩幕府対し慶応2年11月23日1866年12月29日朝鮮における紛争上申し座視する忍びないとして、日本開国経験生かして欧米諸国との調停提案した。これは、八戸記事掲載される半月前のことである(なお当の八戸記事掲載された際には、日本国内十分な注意払われ形跡はない)。翌月新たに15代将となった徳川慶喜は、外交権幕府にあることを誇示するため欧米諸国公使とも頻繁に接触図っており、慶応3年2月7日1867年3月12日)に大坂城フランス公使ロッシュ招いて丙寅洋擾後述に関して朝間和議調停する意志伝え外国奉行平山敬忠正使目付古賀謹一郎副使とする朝鮮使節派遣する内命下した翌日ロッシュの下へ老中板倉勝静備中松山藩主)・老中格松平乗謨信濃田野口藩主)を派遣して協議させている。 このように日本から朝鮮への攻撃計画されているという八戸記事は、実際日朝関係経緯無視した全くの虚報であり、後に幕府朝鮮政府へはっきりと八戸記事否定することになる。

※この「日本:幕末の動乱」の解説は、「八戸事件」の解説の一部です。
「日本:幕末の動乱」を含む「八戸事件」の記事については、「八戸事件」の概要を参照ください。

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