新橋の設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:51 UTC 版)
新橋梁は、PC5径間連続エクストラドーズド箱桁橋として設計された。新橋梁の供用までは旧橋梁を残して営業運転を続けるため、新橋梁の架設位置は、レール中心面間隔で旧橋梁よりも約7m南側(内陸側)となった。京都方(東側)にはトンネルがあり、一方幡生方(西側)には餘部駅が存在しており、これを考慮した平面線形が採用されている。東側ではS字にカーブする橋桁を挿入して既設のトンネルへと接続する一方、西側では山を削って線路を敷設するスペースを確保し、これに伴い餘部駅ホームが従来線路の南側にあったものが北側に変更された。平面線形としては、京都方から半径300mのS字カーブ(左カーブ-右カーブ)で既設橋より約7m南側に出て、その後は直線で、最後に半径2,500mの右カーブがある。一方縦断線形は水平である。設計上の活荷重はEA-17である。 下部構造は橋脚4基と橋台2基で構成され、旧橋梁と同様に起点の京都側から第1号 - 第4号の橋脚番号が付けられている。このうち第1号から第3号の橋脚の太さが 4 m, 第4号が 3 m である。また支間は橋台から第1号の間が 50.1 m, 第1号 - 第2号と第2号 - 第3号が 82.5 m, 第3号 - 第4号が 55.0 m, 第4号と橋台の間が 34.1 m となっている。この支間の配置は、第1号と第2号の間を長谷川および国道178号が通ること、既設橋梁の橋脚を避けて新しい橋脚を建設する必要があること、上部工張り出し架設のバランスなどを考慮して決定された。橋脚の高さは第4号の 33.67 m から第1号の 36.0 m までばらつきがあり、また地下に最大 23.0 m におよぶ杭を打ち込んで基礎としている。橋脚の下部3分の1ほどについては、下から見上げたときの視覚的不安を解消するために末広がりの構造となっている。余部橋梁は橋脚の高さが比較的高く、地震で損傷したときの修復工事に難があることから、特に高い耐震性を確保するように設計されている。 上部構造は、高さ 3.5 m の一定高さの桁橋となっている。これはデザインコンセプトとして「旧橋梁の印象を継承する橋」としたことから、細身の意匠とするために採用されたものである。またこの構想から、主塔の高さも 3.5 m と低く抑える設計を当初は検討していたが、地元からの「よりシンボリックにするため、主塔を高くしたい」という要望があり、主塔とケーブルの保守管理性も考慮のうえで 5.0 m の高さとなった。 橋の上に敷設する軌道は、長大スパンのPC橋でクリープや乾燥収縮による桁そりの変化量が大きいことから、保守性を考慮してバラスト軌道を採用している。これにより騒音も軽減された。またPC橋であり軌道の間が空いていないことから、軌道間から吹き上げる風の列車への影響がなくなると共に、列車からの落下物が地上に到達することもなくなった。風対策として高さ 1.7 m の防風壁が整備されて風速 30 m/s まで運行可能とし、眺望を確保するため材質は透明アクリル板を用いた。この防風壁高さは風洞実験により決定された。余部地区は降雪が多く、橋梁にも積雪対策が必要とされたが、水による融雪方式では地上から高さ 40 m の橋上まで水をポンプアップする設備が必要となりその保守などに手がかかることから、経済性にすぐれる貯雪方式が採用された。20年確率での積雪量 116 cm を想定して軌道脇に貯雪スペースが設けられており、橋の下への落雪を防いでいる。また、将来的に電化される場合にも対応できる構造とされている。 橋の両側の入口には、強風規制を示す特殊発光機が旧橋梁に引き続き設置された。橋には風速計が2か所にそれぞれ2基ずつ設置されており、構造物の影響を受けずに風速を測定するためにレールの高さから8 m上に設置されている。風速計で強風を検知すると特殊発光機の発光ダイオード (LED) が点灯し、運転士が目視して列車を停車させる。点灯直前に列車が橋に進入し、それから最大風速増加率で風速が増大しても、列車を脱線させる強風になる前に列車が橋を通り抜けられるように考慮されている。橋への進入速度は、旧橋では下り50 km/h、上り25 km/hに規制されていたが、新橋では取り付け部のSカーブのために下りの規制速度が45 km/hに変更された。上りの規制速度が低いのは、餘部駅の位置との関係から、強風規制特殊発光機から橋までの距離が短く、点灯してから列車が橋までに停車できるようにする必要からである。 設計を担当したジェイアール西日本コンサルタンツの当時の技師長・北後征雄は、大腸癌で入院し、部下が持ってくる設計図面に病床で目を通して責任者としての署名を続けたものの、新橋梁の工事半ばの2008年(平成20年)6月10日に亡くなった。 新橋梁を建設するために必要な土地の買収に着手したところ、付近の土地が法務局の備付地図(公図)と現況が一致しなくなっている地図混乱地域であることが判明した。これは1893年(明治26年)、1918年(大正7年)、1990年(平成2年)の3回に渡り地域で大きな水害があって地形が変動したことや、復旧作業に際して元と異なる形状にしてしまったこと、法定手続きによらず土地の売買や改良工事が行われてきたことなどが原因であった。このため公共工事に際しても登記を行うことができず、現存する町道が公図に記載されていないといった事態を招いていた。そこでこの機会に集団和解による解決を図ることになり、JR西日本が中心となって地権者や抵当権者などとの交渉を1年7か月にわたって進め、114筆合計約 30,000 m2 の土地について合意の上で公図を作成しなおした。特に遠隔地の抵当権者との交渉に際しては、余部橋梁の架け替え工事に伴うものであることを説明することで協力を得やすくなり、橋梁の知名度の高さに助けられた格好になった。
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