クラーク撲滅運動
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クラーク撲滅運動(クラークぼくめつうんどう)、富農撲滅運動(ふのうぼくめつうんどう)、またはラスクウラーチヴァニェ(ロシア語: раскулачивание、ウクライナ語: розкуркулення)は、ソビエト連邦の農業集団化政策において富農(クラーク)と認定された農民を撲滅・絶滅させようとした政策である[1][2][3]。富農清算運動(カンパニア)ともいう[4]。
- 1 クラーク撲滅運動とは
- 2 クラーク撲滅運動の概要
富農撲滅運動(ラスクウラーチヴァニェ)
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「ホロドモール」の記事における「富農撲滅運動(ラスクウラーチヴァニェ)」の解説
「クラーク撲滅運動」および「グラグ」を参照 ウクライナにはすでに1918年には「富農」はいなくなっていたにもかかわらず、富農撲滅運動(ラスクウラーチヴァニェ)での「クラーク(富農)」の基準は下げられ、牛を2〜3頭所持しているだけでも「富農」として粛清の対象となった。 1927年のウクライナの農村人口は2410万人、そのうちウクライナ共産党員は3万6360人だった。1927年のウクライナでの「富農」、つまり「他人を労働力として雇って農業を営むクラーク」は、ウクライナ全体で全農家の4%、中農が65.6%、雇われた貧農は30.4%だった。 1929年初め、クラーク撲滅は開始された。キエフ県のシャムパイフカ村では15人の農民が財産を没収され、3月に北部に追放された。 1929年冬に農業集団化が開始され、12月に農業の集団化に対する農民の反抗を予期したスターリンは、「クラークをひとつの階級として抹殺する」と宣言した。各地域に三人組の「トロイカ」が設置され、村人のうち富農に該当する者を逮捕していった。トロイカによって処刑されたものは約3万人にのぼった。 クラーク撲滅運動に非協力的であったり抵抗した貧農や中農に対しては、家の外を不良がうろつき、脅迫したり誹謗し、郵便配達人には配達しないように指示し、そうした家の子供は学校から排斥され、共産党少年団(ピオネール)や青年団(コムソモール)から辱めを受けた。病院では集団農場に入ったものしか診察を受けることができなかった。 すでに1920年代に白海のソロフキ島(ソロヴェツキー諸島)に反ソ連分子・反革命分子を収容する強制収容所が設置されていたが、スターリンは1929年にこれをソ連全域に適用し、シベリア、ヨーロッパロシア北部、ウラル山脈、カザフスタンなどに「特別居留区」を設置した。ウクライナでは、1930年の最初の4か月で、11万3637人が「富農」とみなされ、貨物列車に乗せられて、「特別居留区」へ強制移住させられ、強制労働に従事させられた。1930年末までに「富農」と認定された農民は約20万人にのぼり、かれらは全財産を没収されて強制収容所に入れられた。20万人とは、全農家の8%にあたり、実際の「富農」の数の倍にあたる。「クラーク」とみなされ強制移住させられたものは170万人にのぼり、そのうち30万人がウクライナ人だった。 1931年には「特別居留区」と強制収容所を、グラーグとして統合し、これはやがて476箇所建設され、最終的に1800万人が送り込まれた。収容中に死亡したのは150万〜300万人とされる。ウクライナ農民はベロモル運河で強制労働に従事した。ソ連当局は強制収容者の5%が死ぬと予測していたが、実際は10-15%が死んだ。ベロモル運河での強制労働従事者は十分な食事ではなかったが、1933年のウクライナ農民の2倍〜6倍であった。
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