報道・情報戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
ウクライナの報道も制限されていたので、ごく少数の目撃者をのぞいて世界に知られることもなかった。ジャーナリストのガレス・ジョーンズ(英語版)は1933年3月、ウクライナへの旅行禁止処置をやぶって汽車でハルキウに入り、人々が飢えで腹がぱんぱんにふくらんでいるのを目撃した。マリア・ウォヴィンスカは、何体もの死体をみた。こうした少数の報道や、ウクライナから逃亡した農民たちの証言などから、ウクライナでの惨状について各国もある程度承知していたが、スターリンは、五カ年計画の成功を宣伝し、外交的承認を得ようとしていたため、飢饉を絶対に認めるわけにはいかなかった。国際政治の場でのソ連の名誉失墜は避けねばならなかった。 ソ連は、あらゆる手段を用いて、飢饉を作り話だと否定していった。オーストリアの新聞が飢饉を報道すると、ソビエト連邦共産党機関紙『プラウダ』は「無礼な中傷だ。汚い作り話だ」と否定した。ワシントンのソ連大使は、ウクライナの人口は年率2%で増えており、ソ連でもウクライナの死亡率は一番低いと述べた。また、ソ連の人口学者は、ウクライナの人口増加率が低いのは、凶作や自然減、そして「それまでウクライナ人と考えていた人が、自分をロシア人とみなすようになった」ことも要因であると説明した。 ソ連は、ソ連に同情的な世界中の知識人を利用して飢饉の隠蔽工作を行っていたことが現在では判明している。アメリカの「委員会」は、木材産業での強制労働が認められないと報告したが、この「委員会」は、ソ連との友好関係を保つ機関から報酬をもらって雇われていた。 当時バーナード・ショウやH・G・ウェルズ、エドゥアール・エリオらはソ連に招かれた。しかしこれは、「模範的な運営が成されている農村」を見せられ、当局の望み通りの視察報告を行っただけであった。 フランスの急進党エドゥアール・エリオは1933年8月と9月にソ連に滞在し、ウクライナにも5日間滞在し、見学や宴会で歓迎されると、『プラウダ』はエリオが、ウクライナに飢饉はなく、ソ連での飢饉があるという報道は虚偽報道だと述べたと報じた。きれいに飾られた集団農場の保育所でエリオが子供に昼食に何を食べたかと質問すると、子供はカツレツと鶏のスープと答えたが、ヴァシリー・グロスマンはこの農場の子供はミミズを食べていたと述べている。また、エリオに党の方針に反することを説明したウクライナ言語教育単科大学教授セーベルクは、カレリア強制収容所に5年収容された。 バーナード・ショーは1932年に「ロシアでは栄養失調のものは一人もいなかった」と証言した。1933年にはイギリスではソ連に関する嘘のキャンペーンが繰り広げられているが、実際のソ連には経済的奴隷制や失業もないと公言した。 1932-33年にソ連を視察したシドニー・ウェッブとビアトリス夫妻は1937年の著書『ソビエト共産主義』で、ソ連の集団農業強制は、1917年からの農民暴動の「最終段階」であるとして、富農撲滅運動を肯定し、また飢饉も深刻なものではなかったと報告した。ウェッブ夫妻は、飢饉の報道については「ほとんど行ったことのない人々」が勝手に書いていることで、食料が不足しているのは、農民が種まきと収穫を怠ったりしたためで、なかには共有財産である種を持ち帰り、私的に蓄える農民もいると非難した。また夫妻は、スターリンが1933年1月にウクライナから穀物を搾り取ろうと訴えた演説については「大胆で、活力がある」と称賛した。 ニューヨーク・タイムズ特派員記者のウォルター・デュランティ(英語版)は、ガレス・ジョーンズが実際にウクライナで目撃したことを報道すると、「いたずらに恐怖心をあおろうとしたでっちあげ」で「誇張された有害で悪意に満ちた(反共主義の)プロパガンダ」だとジョーンズを批判し、ソ連では「現実に飢饉などない」と断言した。ウェッブ夫妻は、デュランティを高く評価していた。 ジョージ・オーウェルは、イギリスの親ロシア派の知識人たちがウクライナ飢饉のような巨大な出来事に注意を向けなかったことを批判したが、権威ある知識人たちがソ連政府に同調して飢饉の事実を否定することを繰り返していくうちに、飢饉のことは忘れられていった。飢饉について知られるようになったのは、第二次世界大戦後のスターリン批判以降に、冷戦時代にソ連から亡命した者や、ソ連に共鳴していたが、ソ連の不正に気がついた西側諸国の知識人による研究や知見が蓄積するようになってからである。
※この「報道・情報戦」の解説は、「ホロドモール」の解説の一部です。
「報道・情報戦」を含む「ホロドモール」の記事については、「ホロドモール」の概要を参照ください。
- 報道・情報戦のページへのリンク