加害者K
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:16 UTC 版)
「正寿ちゃん誘拐殺人事件」の記事における「加害者K」の解説
加害者の少年K・T(事件当時19歳)は1950年(昭和25年)8月28日生まれ。長崎県長崎市内で、長崎市役所港湾課の職員だった父親の下に五男(5人兄弟の末弟)として生まれた。幼少期の家の暮らしは楽ではなく、母が内職で家計を助けていたが、Kが小学校に入学するころには暮らし向きも徐々に良くなっていた。家族仲は円満だったが、Kは幼少期から内向的・消極的な性格で、落ち着きがなく注意力も散漫だった。 Kは小中学校時代、学業成績は「中の下」で、兄たちより劣っていたが、体育実技には優れ、中学時代は運動部で活躍し、東京オリンピックの際は聖火リレーの随走者に選ばれたりもした。また、小学校時代は内向的な性格で、中学時代の担任は「Kは親しい友達はいなかったが、おとなしくて誰にでも優しい性格で、級友と喧嘩したことはなかった」と証言している。 Kは長崎市立大浦中学校を卒業後、就職を一応希望したが、家族の勧めもあって進学することになり、公立定時制高校を受験したが、不合格になったため、比較的学力程度の低いと評されている長崎市内の私立高校に入学。高校時代は校内競技大会で、クラスのバレーボールチームを率いて優勝の原動力になるなど、陽気な性格で、入学から4か月間は真面目に通学していた。しかし、まもなく学校が嫌になったことや、家族から理容師や自動車整備士など、職を手につける道に進むことを勧められたのに対し、気が進まなかったことから、1年生の夏休み中である1966年(昭和41年)8月5日、父名義の預金を勝手に引き出したりして得た約10万円を持って家出し、高校も中退した。そして、週刊誌の広告で知った熱帯魚飼育の仕事をすることを思いつき、神戸市に行ったが、探していた熱帯魚店が見つからなかったため、同月16日から市内のパチンコ店に住み込んで働いた。1967年(昭和42年)2月末に同店を辞め、同時に店を辞めた者の誘いでともに上京し、同年3月初旬からは東京都品川区西大井の印刷所に住み込みで勤めたが、その後、当時蒲田に住んでいた三兄と連絡を取ったため、同年5月末に退職。当時、Kは勤務ぶりは真面目だったが、非社交的な性格のため無口で、親しい友達もおらず、一人で映画やテレビを見たり、漫画を読むことを趣味とするような生活を送っていた。
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加害者K
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 07:19 UTC 版)
「司ちゃん誘拐殺人事件」の記事における「加害者K」の解説
加害者の男K・T(事件当時36歳、以下「K」と表記)は1943年(昭和18年)8月23日、宮城県桃生郡前谷地村前谷地(現:石巻市前谷地)で四男(腹違いの兄弟を含めると六男)として出生した。事件当時は3歳年上の妻と、子供2人(高校1年生の長男、中学2年生の長女)がいた。 Kは宮城県内の中学校を卒業後、石巻市の鉄工所に務めたが、わずか半年で辞めて上京し、東京都台東区内の電気店に就職して電気工事技術を習得。その間に恋愛結婚したが、1965年(昭和40年)12月に店を退職し、妻の実家である山梨県北巨摩郡明野村浅尾に移転した。その後、山梨県内の電気店を転々としながら電気工として勤務し、妻との間に1男1女をもうけ、1969年(昭和44年)3月には妻の実家から、明野村小笠原3630番地の村営住宅に転居した。 その後、他人に使われることに飽き足らず、独立営業を志し、周囲の反対を押し切って勤務先を退職したが、同業者への根回しなどを怠って県の認可を取得するのに手間取り、電気工のアルバイトなどをした後、1976年(昭和51年)4月に自宅で「K電気」の名称で電気工事業を始めた。当初は受注も比較的多かったが、Kはもともと経済観念に乏しく、地元出身者でもなかったため、「得意先を増やすために他よりも安く工事を請け負い、良い仕事をしなければならない」と考えていたため、さほど利益は上がらなかった。加えて、虚栄心が強く遊び好きな性格と、「繁盛しているように装えばそれだけ信用が高まり、仕事の受注も増加するだろう」との浅慮から、交際の範囲を広げ、甲府市内のキャバレーなどで遊興し、同業者におごるなどの消費を重ねた。また、1979年(昭和54年)4月ごろからは不必要な従業員を雇うなどしたため、経営不振で赤字が続き、同年7月ごろには当時の電気工事材料の仕入先だった「甲」有限会社に対し、約100万円の買掛金債務が生じた。この時、Kは2日ほど家出したが、妻が自己の預貯金を払い戻して返済し、その場をしのいだ。 このように金遣いが荒かった一方、地元では「ソフトボールのKさん」として知られていた。山梨県はソフトボールが盛んな地域だが、Kは審判のライセンスを取得していたほか、所属していた地元のアマチュアチームでは捕手兼監督を務め、チームの選手だけでなく、子供たちにも熱心に指導していた。しかし、1979年末にはチームのユニフォーム代金を流用したことが発覚し、監督を解任されている。
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