再婚と離婚劇とは? わかりやすく解説

再婚と離婚劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 09:24 UTC 版)

伊藤伝右衛門」の記事における「再婚と離婚劇」の解説

1910年明治43年5月に妻のハル死去した後、伝右衛門のもとには数多く再婚話が持ち込まれてきた。旧土藩主山内伯爵家令嬢決まりかけたが、年の差があり過ぎるという理由断られた。これを聞いた富田敬次郎海軍大佐幸袋絞り染め講習師・古賀万太郎通して得能通要(得能良介息子)を仲人に、伝右衛門と燁子の見合い持ちかけた。 ハルの死から9ヶ月後、1911年明治44年2月伯爵柳原前光の娘・燁子と結婚した。共に再婚で、伝右衛門50歳、燁子は25歳数え52歳27歳)と親子ほどの年齢差があり、富豪ではあっても「素性卑しき掘り男」と蔑まれる労働者上がり伝右衛門伯爵令嬢との結婚異例の事で、炭坑成金華族の姫を金で買った新聞格好話題となった年齢身分教養あまりに隔たり大きいこの結婚背景には、貴族院議員である燁子の兄・義光の選挙資金目的と、伝右衛門側の名門との結びつき求め利害一致、また仲介者三菱鉱山実力者である高田正久という政略的なものがあったと見られている。 伝右衛門飯塚市幸袋本邸改築して燁子を迎え食事言葉遣いといった家風改革子供縁組みなど燁子の希望出来る限り受け入れた。燁子の世話1915年大正4年)には娘の静子婿養子堀井秀三郎(赤穂浪士片岡源五右衛門の子孫)を迎え1918年大正7年)には異母妹である初枝婿養子山沢静吾男爵の子息・鉄五郎迎えた和歌など無縁なものであったが、伊藤家農園で燁子が中秋名月歌会開いた時には、その席に出て客の接待当たった事もあった。また福岡市天神町別府市山の手に「あかがね御殿」と称され豪奢な別邸造営し歌人として自由に活動させ、歌集出版資金出したりもしている。 だが、結婚当初から伯爵家令嬢として育った文化人肌の燁子と叩き上げ実業家川筋気質女性関係の出入り激し伝右衛門夫婦仲は冷たいものがあった。伊藤家には伝右衛門の妾である女中も共に暮らして家政取り仕切っており、彼女らとの関係でも燁子は苦悩した。また伝右衛門実子妾腹の娘・静子1人(母は伊藤家近く栗田家末娘キヨ)で、前妻ハルとの間に子はなく、ハル存命中から妹・日高キタの子供の金次、その弟の八郎養子迎えていた(八郎戸籍上金次の子として入籍されている)。また燁子と再婚する前に手切れ金渡して別れた妾のつねも養女として伊藤の籍に入れている。伝右衛門若い頃放蕩原因新たに子供出来ない身体であり、燁子は複雑な家庭中にあって実子持たない妻の立場の不安を常に抱えていた。養子金次伊藤家相続人立てられ大正7年結婚した妻の艶子(深川製磁社長長女)に男子産まれた時など、たまにしか顔を合わせない嫁の艶子を徹底的に嫌い抜くなど、己の立場脅かされる事態に対して燁子はヒステリックになり、伝右衛門悩ませた。養子や妾の問題先妻ハル時代にもあり、金次養子迎えた頃、ハル自分血縁の甥を家に入れて可愛がり金次につらく当たって金次何度家出をした事があったという。妾である女中頭と対立する燁子に対し伝右衛門前妻ハルと妾のつねは姉妹のように仲良くしていたと考え、燁子にもそれを求めたが、実際にハルはつねと会えば熱が上がり自分死んだらつねが後妻に収まるだろうと苦悩しており、つねにも日陰の身の苦しみがあったという。 大正鉱業二代目継いだ伊藤八郎は、6歳の時から10年間燁子を継母として育ち、妻を燁子の縁者にあたる冷泉家から迎えており、伝右衛門と燁子双方立場立って、後に記したわが家小史』の中で2人結婚生活を以下のように振り返っている。 「・・父が胃潰瘍天神町別邸療養していたのはその翌年の春か夏であったろう。前記鉱区訴訟問題苦悩していたのではないだろうか。更に私の勝手な想像加えると継母結婚して一年前後の頃に当たる。継母継母なりに全く異質地域家庭1人嫁して大変な苦心があったであろうし、父は父として外見的に華やかな結婚したものの、継母家庭、また家庭をとりまく周囲との間で大変な心労をしたのであろう顔に出すものはいなかったであろうが、周囲人々1人としてこの結婚内心祝福してはいなかったと思う。若い頃の父は表面やさしさを出す様な処はなかったが、内心ナイーブな処があって、このことでも心労していたことと思う・・」 —伊藤八郎、『わが家小史1987年 苦悩果てに燁子が伊藤家出奔した白蓮事件で再び世を騒がせるになった伝右衛門は、騒動最中新聞記者による反論記事出された以外は、制裁加えろと息巻く血気盛んヤマ男達を「手出しは許さん」と一喝して押し止め、「一度惚れた女だから」として一族にも「末代まで一言弁明無用と言い渡し事件後は一切非難弁明もしなかった。ただ一言身近な者に「燁子は学問をし過ぎた」と漏らしたという。燁子が取り入れた洋食女中らにしつけた言葉遣いなど習慣その後伊藤家残った。 燁子との離婚後新たに妻を迎える事はなかったが、長年京都の妾であった野口さとが晩年伝右衛門寄り添った。さとは妾の立場ありながら燁子にも信頼寄せられ伊藤家孤立する燁子の依頼で妹のおゆうを福岡幸袋行かせるなどしていた。伝右衛門から京都料亭伊里」(屋号伊藤の「伊」と「里」から)の経営任され、そこは伝右衛門と燁子の定宿となっていた。2人離婚後も、燁子との交流続いた伝右衛門没後生前遺言通り西本願寺大谷本廟伝右衛門の墓を建立し手厚く供養した。

※この「再婚と離婚劇」の解説は、「伊藤伝右衛門」の解説の一部です。
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