再婚と離婚劇
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1910年(明治43年)5月に妻のハルが死去した後、伝右衛門のもとには数多くの再婚話が持ち込まれてきた。旧土佐藩主山内伯爵家の令嬢と決まりかけたが、年の差があり過ぎるという理由で断られた。これを聞いた富田敬次郎海軍大佐が幸袋の絞り染め講習師・古賀万太郎を通して得能通要(得能良介の息子)を仲人に、伝右衛門と燁子の見合いを持ちかけた。 ハルの死から9ヶ月後、1911年(明治44年)2月に伯爵・柳原前光の娘・燁子と結婚した。共に再婚で、伝右衛門は50歳、燁子は25歳(数え52歳と27歳)と親子ほどの年齢差があり、富豪ではあっても「素性卑しき炭掘り男」と蔑まれる労働者上がりの伝右衛門と伯爵令嬢との結婚は異例の事で、炭坑の成金が華族の姫を金で買ったと新聞で格好の話題となった。年齢・身分・教養とあまりに隔たりが大きいこの結婚の背景には、貴族院議員である燁子の兄・義光の選挙資金目的と、伝右衛門側の名門との結びつきを求める利害の一致、また仲介者が三菱鉱山の実力者である高田正久という政略的なものがあったと見られている。 伝右衛門は飯塚市幸袋の本邸を改築して燁子を迎え、食事や言葉遣いといった家風改革や子供の縁組みなど燁子の希望を出来る限り受け入れた。燁子の世話で1915年(大正4年)には娘の静子の婿養子に堀井秀三郎(赤穂浪士・片岡源五右衛門の子孫)を迎え、1918年(大正7年)には異母妹である初枝の婿養子に山沢静吾男爵の子息・鉄五郎を迎えた。和歌など無縁なものであったが、伊藤家の農園で燁子が中秋名月の歌会を開いた時には、その席に出て客の接待に当たった事もあった。また福岡市天神町と別府市山の手に「あかがね御殿」と称された豪奢な別邸を造営して歌人として自由に活動させ、歌集の出版資金を出したりもしている。 だが、結婚当初から伯爵家の令嬢として育った文化人肌の燁子と叩き上げの実業家で川筋気質、女性関係の出入り激しい伝右衛門の夫婦仲は冷たいものがあった。伊藤家には伝右衛門の妾である女中も共に暮らして家政を取り仕切っており、彼女らとの関係でも燁子は苦悩した。また伝右衛門の実子は妾腹の娘・静子1人(母は伊藤家近くの栗田家の末娘・キヨ)で、前妻ハルとの間に子はなく、ハルの存命中から妹・日高キタの子供の金次、その弟の八郎を養子に迎えていた(八郎は戸籍上金次の子として入籍されている)。また燁子と再婚する前に手切れ金を渡して別れた妾のつねも養女として伊藤の籍に入れている。伝右衛門は若い頃の放蕩が原因で新たに子供は出来ない身体であり、燁子は複雑な家庭の中にあって実子を持たない妻の立場の不安を常に抱えていた。養子の金次が伊藤家の相続人に立てられ、大正7年に結婚した妻の艶子(深川製磁社長の長女)に男子が産まれた時など、たまにしか顔を合わせない嫁の艶子を徹底的に嫌い抜くなど、己の立場が脅かされる事態に対して燁子はヒステリックになり、伝右衛門を悩ませた。養子や妾の問題は先妻ハルの時代にもあり、金次を養子に迎えた頃、ハルは自分の血縁の甥を家に入れて可愛がり、金次につらく当たって金次は何度か家出をした事があったという。妾である女中頭と対立する燁子に対し、伝右衛門は前妻のハルと妾のつねは姉妹のように仲良くしていたと考え、燁子にもそれを求めたが、実際にはハルはつねと会えば熱が上がり、自分が死んだらつねが後妻に収まるだろうと苦悩しており、つねにも日陰の身の苦しみがあったという。 大正鉱業の二代目を継いだ伊藤八郎は、6歳の時から10年間燁子を継母として育ち、妻を燁子の縁者にあたる冷泉家から迎えており、伝右衛門と燁子双方の立場に立って、後に記した『わが家の小史』の中で2人の結婚生活を以下のように振り返っている。 「・・父が胃潰瘍で天神町の別邸で療養していたのはその翌年の春か夏であったろう。前記の鉱区訴訟問題で苦悩していたのではないだろうか。更に私の勝手な想像を加えると継母と結婚して一年前後の頃に当たる。継母は継母なりに全く異質の地域と家庭に1人で嫁して大変な苦心があったであろうし、父は父として外見的には華やかな結婚をしたものの、継母と家庭、また家庭をとりまく周囲との間で大変な心労をしたのであろう。顔に出すものはいなかったであろうが、周囲の人々は1人としてこの結婚を内心祝福してはいなかったと思う。若い頃の父は表面にやさしさを出す様な処はなかったが、内心はナイーブな処があって、このことでも心労していたことと思う・・」 —伊藤八郎、『わが家の小史』1987年 苦悩の果てに燁子が伊藤家を出奔した白蓮事件で再び世を騒がせる事になった伝右衛門は、騒動の最中に新聞記者による反論記事が出された以外は、制裁を加えろと息巻く血気盛んなヤマの男達を「手出しは許さん」と一喝して押し止め、「一度は惚れた女だから」として一族にも「末代まで一言の弁明も無用」と言い渡し、事件後は一切の非難も弁明もしなかった。ただ一言、身近な者に「燁子は学問をし過ぎた」と漏らしたという。燁子が取り入れた洋食や女中らにしつけた言葉遣いなどの習慣はその後も伊藤家に残った。 燁子との離婚後、新たに妻を迎える事はなかったが、長年の京都の妾であった野口さとが晩年の伝右衛門に寄り添った。さとは妾の立場にありながら燁子にも信頼を寄せられ、伊藤家で孤立する燁子の依頼で妹のおゆうを福岡幸袋に行かせるなどしていた。伝右衛門から京都で料亭「伊里」(屋号は伊藤の「伊」と「里」から)の経営を任され、そこは伝右衛門と燁子の定宿となっていた。2人の離婚後も、燁子との交流は続いた。伝右衛門の没後は生前の遺言通り西本願寺大谷本廟に伝右衛門の墓を建立し、手厚く供養した。
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