再婚の失敗と中風の再発
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9年間連れ添った妻の菊とその間にできた4人の子どもたちを全て亡くし、文政7年の正月を一人で迎え、「もともと自分は独り者であった」との思いを俳句にした一茶であったが、正月早々後添い探しを始めた。一茶は再婚したいとの希望をあちこちに語っていたというが、1月6日(1824年2月5日)には知人である関川(新潟県妙高市)の浄善寺の住職に、急ぎお返事くださいと後妻の紹介を依頼する手紙を送っている。 結果として浄善寺の住職に依頼した再婚相手の紹介話は実らなかったが、意外なところから再婚話が持ち上がってくる。これまで弟との遺産相続問題で弟側に立ったり、伝馬役金の免除問題などがあり、一茶との関係が良くなかったと推測されている本家の弥市が一茶の再婚を支援したのである。4月28日(1824年5月26日)、弥市は自らの娘が重い病の床に就いていたのにも関わらず、一茶の縁談の話をまとめるために飯山に行っている。なお弥市の娘はその後まもなく5月2日(1824年5月29日)に亡くなった。 弥市の娘の葬儀は5月3日(1824年5月30日)に行われた。そのようなあわただしい中、5月12日(1824年6月8日)、再婚相手が飯山からやって来て、待望の再婚を果たした。一茶の日記によると再婚相手は雪という名で、飯山藩士田中氏の娘であり、年齢は38歳と記録している。つまり雪は武士の娘であった。一茶の研究家である小林計一郎、矢羽勝幸の研究によって、雪は飯山藩士田中義条の娘であったと推定されている。 一茶との結婚時、雪が38歳というのは当時の結婚適齢期から見て大きく外れたものであり、それまでの雪の人生が必ずしも恵まれたものではなかったことが推測される。雪は最初父、田中義条と同じ飯山藩士の安田新助という人物と結婚したと考えられるが、離婚して実家に戻っていた。安田との離婚理由は飯山藩士を召し放たれたため、つまり何らかの理由で夫が藩士を首になり、浪人となってしまったからであるとの推測もある。いずれにしても一茶と雪はともに再婚であった。 雪との再婚後、菊との初婚時とは異なり、近所や親戚回り、そして村役人への挨拶が行われた形跡は無い。それどころか新婚の一茶宅には各地から俳人がひっきりなしに訪ねてきた。全国にその名が轟いていた俳諧師一茶のもとには俳人の来訪が絶えなかった。新婚直後の一茶宅にも普段と変わらず客人がやって来たのである。そして5月30日(1824年6月26日)からは一茶は本業ともいうべき北信濃の門人巡りに出る。一茶は6月中は一回も自宅に戻らず、家を出て39日後の7月9日(1824年8月3日)、ようやく家に戻ってきた。結婚後近所、親戚、村役人への挨拶も無く、新婚直後からひっきりなしの来客、そして一月以上の夫、一茶の留守という状況は、新婚直後の妻としては厳しいものがあった。ましてや菊とは異なり武士の娘であった雪にとって、農業の経験もなく、これまでの生活習慣との違い等も大きかった。雪は一茶が自宅に戻った直後、飯山の実家に戻り、結局8月3日(1824年8月26日)に離婚となり、8日(1824年8月31日)には使いが雪の荷物を引き取っていった。こうして一茶の再婚は失敗に終わった。 再婚の失敗直後、一茶に更なる不幸が襲った。離婚から1カ月も経たない閏8月1日(1824年9月23日)、善光寺町の門人宅で中風が再発したのである。一茶は一命はとりとめたものの、はっきりとした言語障害が残ってしまった。中風の再発後、療養を兼ねて北信濃各地の門人宅を回り、12月4日(1825年1月22日)に自宅に戻った。
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