再婚と子供たち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 01:10 UTC 版)
慶長18年(1613年)、天海の進言もあり、家康は満天姫を津軽弘前藩主津軽信枚に再嫁させることにした。しかし信枚は、兄津軽信建が小姓仲間であった石田重成とその妹辰姫を関ヶ原の戦いの後に津軽に匿っていた縁から、辰姫を正室として既に迎えていた。 結局、辰姫は関ヶ原の戦いの論功として津軽家が得ていた飛び地領の上州大館村(現在の群馬県太田市)に、側室へ降格されて移されることとなり、満天姫は正室として迎えられた。福島正之との間に儲けた男児も一緒だった。 しかし、信枚は辰姫のことが忘れられず、参勤交代の際には大館村の辰姫の居館に立ち寄り、睦み合っていた。その結果、辰姫は身ごもり、元和5年(1619年)に男児を出産し、平蔵と名付けられた。信枚は、平蔵を自分の世継ぎにしたいと満天姫に懇願した。一方、満天姫も元和6年(1620年)に男児(後の津軽信英)を出産する(ただし、側室の生まれとする地元の資料があるとされ、満天姫の子ではないとする意見もある)。 辰姫は元和9年(1623年)に32歳で没したため、平蔵は上州大館村より江戸藩邸に迎え入れられ、信枚の世継ぎとして育てられた。平蔵は、後に信枚の跡を継いで第3代藩主津軽信義となる。 満天姫が福島正之との間にもうけた男児は、弘前藩の家老となっていた大道寺直英(後北条氏家臣大道寺政繁の養子)の養子に出され、大道寺直秀と名乗ることとなった。また、信枚と満天姫との間に生まれた男児は、後に弘前藩の支藩黒石藩の祖の津軽信英となる。
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