再婚と政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 09:20 UTC 版)
「ジュゼッペ・ヴェルディ」の記事における「再婚と政治」の解説
1859年8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォアのコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式を挙げた。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げた。夫妻は平穏な生活を送ったが、イタリアは第二次独立戦争でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ。 だがそれはすぐに失望へ変わった。同じくオーストリアと対立しイタリアを支援したナポレオン3世が秘かにオーストリアと通じヴィッラフランカの講和に踏み切った。エマヌエーレ2世はしぶしぶこれを呑み、宰相カミッロ・カヴールは辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。 パルマ公国もモデナと合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都のトリノでエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い、音楽から身を引いた農夫として政治から身を引いた農夫と話し合った。 その後サンターガタに戻ったヴェルディは妻とジェノヴァ旅行を楽しむなど平穏に過ごしたが、イタリア情勢はまた動き始めた。事態を進められない内閣をエマヌエーレ2世は罷免し、カヴールが復帰すると各小国との合併が進み、1861年に統一は成就してイタリア王国が誕生した。カヴールは初代首相に就任し、彼はヴェルディに国会議員に立候補するよう薦めた。議会中静かに座っている自信が無いと断るヴェルディは逆に説得されしぶしぶ立ち、彼は当選した。下院議員の一員となったヴェルディに能力も野心も無く、ただカヴールに賛成するだけで過ごしたが、6月に当のカヴールが亡くなると意欲は失せ、4年の任期中に特に目立つ政治活動は行わなかった。
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