再婚とスキャンダル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:31 UTC 版)
「マーガレット・オニール・イートン」の記事における「再婚とスキャンダル」の解説
反イートン夫妻派の筆頭だったのがジョン・カルフーン副大統領とその妻、セカンドレディのフロリード・カルフーン(英語版)だった。フローリデ夫人はマーガレットを嫌い、イートン夫妻を招くことを拒否した。1829年3月に発足したジャクソン政権の他の閣僚夫人全員もフローリデに追随し、マーガレットを新政権の閣僚夫人として認めることを拒否した。 ジャクソン大統領は一向に収まらない非難に対して激怒し、「私はここの淑女のために組閣するわけではない。国家のためだ」と怒鳴った。重婚の件で反対派から強く非難され、大統領就任直前に亡くなっていたレイチェル夫人とマーガレットの境遇を重ね、彼女を必死に擁護しようとした。マーガレットは前の夫との間に2人の子供をもうけていたが、ジャクソン大統領は「彼女は処女のように純潔である」と宣言した。その後に公式の閣僚晩餐会を開き、マーガレットを自分の隣に座らせた。ところが、彼女は大胆にも胸もあらわなローカット、片方の肩をむき出しにしたドレスで登場して夫人達の敵意を煽ってしまった。マーガレットが舞踏会に現れるとみな退散した。この女達の争いはペティコート事件(英語版)と呼ばれた。 妻と死別して独身だったマーティン・ヴァン・ビューレン国務長官はイートン夫妻のためにパーティーを開き、また、他の人物にもパーティーを開かせるように働きかけた。この結果、カルフーンとヴァン・ビューレンによる本格的な政争に発展した。 ジャクソン大統領も頑固さを貫き通した。ついにはファーストレディの代役を務めていたエミリー・ドネルソンとその夫を、マーガレットを夕食会に誘うことを拒否したためにテネシー州へ送り返してしまった。ヴァン・ビューレンは解決策として自分とイートンがまず閣僚を辞任し、次いで大統領が他の閣僚にこれに追随するよう求めることを提議した。ジャクソン大統領はこれを受け入れ、全閣僚が辞任した。世間では「次の閣僚はみな独身か、妻は家に置いてくるのだ」という笑い話が流行した。ジャクソン大統領はこの時の態度を買ってヴァン・ビューレンを自身の後継者に指名し、一方でこの事件で評価を落としたカルフーンは大統領になる機会をふいにしてしまった。 イートンは1834年からフロリダ州知事を務めたが、同年に合衆国上院議員の議席を回復させることには失敗した。その後に1836年から1840年まで在スペイン特命全権公使(英語版)を務め、マーガレットも夫と一緒にスペインに同行した。2人目の夫イートンは1856年11月17日に亡くなった。
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