個人攻撃とそれぞれの晩年とは? わかりやすく解説

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個人攻撃とそれぞれの晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 01:48 UTC 版)

化石戦争」の記事における「個人攻撃とそれぞれの晩年」の解説

コープマーシュは、米国西部化石争奪戦繰り広げつつ、なお互い信用貶めることにも全力注いでいた。首長竜エラスモサウルス復元における誤りで恥をかかされコープは、それを隠そうとこの誤り記載され学術刊行物手当たり次第購入した最初の段階過ち指摘したマーシュは、その後も必ずコープ誤り指摘し続けたコープ短期間膨大な量の学術論文発表したが、マーシュにとってはコープこきおろすようなミスをみつけるのは造作もないことであった 。なおマーシュ論文にも、アパトサウルス骨格別種頭骨をおいて新種"ブロントサウルス"を記載したことがあるなど、誤りがなかったわけではない1880年代の末ともなると、コープマーシュ争い対す一般関心薄れていった。人々は「ワイルド・ウェスト」よりも国際的な話題惹かれていったのである。このときマーシュは、アメリカ地質調査所ジョン・ウェズリー・パウエル自身ワシントン築いた大金持ち権力者との人脈おかげで政府統合研究責任者任命され、ゴシップネタにならずに済むようになっていた。コープの方はそれほど恵まれてはおらず博物学誌『アメリカン.ナチュラリスト英語版)』の購読に金をつぎ込み続けており、各大学研究所にいるマーシュ友人たちそして自分自身性格の問題もあって新たな職も見つけられずにいた。やがて西部金銀鉱探し投資するようになり、自らもマラリア厳し気象条件に耐えて化石探し続けた。だが鉱脈探し失敗し政府からの補助金絶えコープ財政状況悪化一途をたどり、ついに資産化石コレクションだけという有り様となった一方マーシュも、発見物協力者分け合うことを拒んだり金払いだらしなかったため、ウィリストンらかつての忠実な部下からも敬遠されるようになっていた。 コープマーシュ弱みつけ込む機会1884年訪れた米連議会地質学調査進捗状況調査しはじめたのであるコーププリンストン大学比較解剖学教授をしていたヘンリー・フェアフィールド・オズボーン友人になる。オズボーン多くの点でマーシュとよく似た人物、つまり行動は遅いが論理的な思考持ち主であったが、後にマーシュダメージ与え存在となる。コープは、パウエルとその調査にたいして不満をもちそれを声高に非難する人物さがした当面の間パウエルマーシュ首尾よくコープ非難反論しており、コープ指摘主だったメディアでとりあげられなかった。やがてオズボーンが反マーシュ運動嫌気がさしてきているとみたコープは、「ニューヨークからきた新聞記者」のウィリアム・ホセア・バロウを新たな協力者とした。マーシュ米国科学アカデミー会長の座から引きずり下ろす工作をしていたコープであったが、幸運にペンシルベニア大学教職地位を得ることに成功し財政面大い助けとなった。この直後コープマーシュキャリア致命的な一撃くらわす機会訪れたコープは、長年の間マーシュパウエル犯したミス悪行つづった詳細な記録をつけ続け、それを書き貯めて引き出し下段しまっていた。これを元にバロウ第一弾記事企画した。それは後に新聞連載の形となり、マーシュパウエル、そしてコープの間の紙上議論へと発展していった。科学界はマーシュコープライバル関係について前々から知っていたが、ニューヨーク・ヘラルド紙に『Scientists Wage Bitter Warfare.(科学者たち醜い争い)』と題する記事掲載されたことにより、2人恥さらしな行いは衆目晒されることとなってしまった。作家エリザベス・ノーブル・ショル (Elizabeth Noble Shor) によると科学界は大きなショック受けたという。 当時のほとんどの科学者は、マーシュとのコープ争い一面ニュースになっていたことを知り、尻ごみしました議論対象となった科学分野最も近い地質学者古脊椎動物学者たちは確かに表情曇らせたのです。特にコープマーシュ論文引用したり、言及したり、スペルミスしたりしていたような人たちはそうですコープマーシュ確執この分野で20年上前からありつづけた問題でしたので、学者たちにとってはニュースでなんでもありませんでした学者たちの大部分はすでにどちらか一方の側についていたのです。 新聞記事コープマーシュ論文盗用財政面失敗の点で非難しパウエルに対して地質学的分類誤り政府補助金浪費しているなどと攻撃したマーシュパウエル互いに自分の側の話を発表しコープ反論した結局バロウ記事取材記述内容不充分であったことから衆目を集めるには至らず今度コープ自身フィラデルフィア・インクワイアラー紙の記事ペンシルベニア大学評議員から「マーシュパウエルにかけた嫌疑証拠提出しない辞任せよ」と要求されるという目にあっていた。なおマーシュ一人ヘラルド紙上激し反論つづけたが、1月も末になると新聞紙上を賑わすともなくなり2人熾烈なライバル関係にはほとんど変化はなかった。 結局パウエルによる予算不適切執行調査する議会公聴会開催されず、コープマーシュ犯した誤りについて責任をとらされることはなかったが、マーシュ対すバロウ非難歳出委員会による調査へと発展した西部干ばつによる反調査感情放棄され西部農場買収対す懸念直面したパウエル自身下院歳出委員会英語版)の大掛かりな精査対象となっていることを知ることとなった歳出委員会は、マーシュ調査資金浪費気付き調査団予算内訳明細提出するよう要求した結果予算1892年カットされパウエルマーシュ辞任求め簡素な電報打った同時期にマーシュ仲間たちもその多く引退した亡くなったりなどしたためマーシュ科学的信頼度裏付けるものが失われていった。こうしてマーシュがその浪費生活のつけを払わされそうになっていたころ、コープテキサス地質調査会から資金援助を受けることに成功していた。未だヘラルド紙の問題受けた個人攻撃ダメージ残っていたコープであったが、こうした運勢変化ありながら個人攻撃をやめることはなかった。1890年代初期コープライディ就いていた動物学教授地位昇格しマーシュ科学アカデミー会長から退任した同じ年に全米科学振興協会 (National Association for the Advancement of Science) 会長選出されるなど運気上向きであった。しかし、1890年代後半にはマーシュ復権古生物学における最高の賞であるキュヴィエ・メダル (Cuvier Medal) を獲得するなどコープ再度苦い思い噛みしめることとなったコープマーシュライバル関係1897年コープ死去するまで続いたが、このときには両者とも経済的に破たんしていた。コープ晩年消耗性疾患にかかり、生活の糧を得るため所蔵していた化石一部売り払った所有していた家々のうち一軒賃貸出したりした。一方マーシュも、自宅抵当入れなければならなくなりイェール大に生活費無心せざるをえなくなっていた。だがそうした状況なかでも2人は強いライバル心を抱き続けていた。コープは死ぬ間際マーシュ最後の挑戦をした。自分脳の大きさを測ってもらうため、死後自分頭蓋骨解剖のために献体したのである当時脳の大きさ知性測る真のバロメーター考えられており、コープ自分の脳がマーシュよりも大きいことを願ってこうした行動をとったのであった結局マーシュはこの挑戦を受けることはなく、伝えられるところによれば、コープ頭蓋骨は今もペンシルベニア大学保管されているという。(なお同大学に現在保管されている頭骨本当にコープのものかについては論争がある。大学側本物頭骨1970年代紛失したとしているが、古生物学者ロバート・T・バッカー頭骨上の細い亀裂検視官報告とにより頭骨コープ本人のものだとしている。)

※この「個人攻撃とそれぞれの晩年」の解説は、「化石戦争」の解説の一部です。
「個人攻撃とそれぞれの晩年」を含む「化石戦争」の記事については、「化石戦争」の概要を参照ください。

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