個人攻撃とそれぞれの晩年
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「化石戦争」の記事における「個人攻撃とそれぞれの晩年」の解説
コープとマーシュは、米国西部で化石争奪戦を繰り広げつつ、なお互いの信用を貶めることにも全力を注いでいた。首長竜エラスモサウルス復元における誤りで恥をかかされたコープは、それを隠そうとこの誤りが記載された学術刊行物を手当たり次第に購入した 。最初の段階で過ちを指摘したマーシュは、その後も必ずコープの誤りを指摘し続けた。コープは短期間に膨大な量の学術論文を発表したが、マーシュにとってはコープをこきおろすようなミスをみつけるのは造作もないことであった 。なおマーシュの論文にも、アパトサウルスの骨格に別種の頭骨をおいて新種"ブロントサウルス"を記載したことがあるなど、誤りがなかったわけではない。 1880年代の末ともなると、コープとマーシュの争いに対する一般の関心は薄れていった。人々は「ワイルド・ウェスト」よりも国際的な話題に惹かれていったのである。このときマーシュは、アメリカ地質調査所長ジョン・ウェズリー・パウエルと自身がワシントンに築いた大金持ちや権力者との人脈のおかげで政府の統合研究責任者に任命され、ゴシップネタにならずに済むようになっていた。コープの方はそれほど恵まれてはおらず、博物学誌『アメリカン.ナチュラリスト(英語版)』の購読に金をつぎ込み続けており、各大学や研究所にいるマーシュの友人たちそして自分自身の性格の問題もあって新たな職も見つけられずにいた。やがて西部で金銀鉱脈探しに投資するようになり、自らもマラリア蚊や厳しい気象条件に耐えて化石を探し続けた。だが鉱脈探しは失敗し政府からの補助金も絶え、コープの財政状況は悪化の一途をたどり、ついに資産は化石コレクションだけという有り様となった。一方のマーシュも、発見物を協力者と分け合うことを拒んだり金払いがだらしなかったため、ウィリストンらかつての忠実な部下からも敬遠されるようになっていた。 コープがマーシュの弱みにつけ込む機会が1884年に訪れた。米連邦議会が地質学調査の進捗状況を調査しはじめたのである。コープはプリンストン大学比較解剖学教授をしていたヘンリー・フェアフィールド・オズボーンと友人になる。オズボーンは多くの点でマーシュとよく似た人物、つまり行動は遅いが論理的な思考の持ち主であったが、後にマーシュにダメージを与える存在となる。コープは、パウエルとその調査にたいして不満をもちそれを声高に非難する人物をさがした。当面の間、パウエルとマーシュは首尾よくコープの非難に反論しており、コープの指摘は主だったメディアではとりあげられなかった。やがてオズボーンが反マーシュ運動に嫌気がさしてきているとみたコープは、「ニューヨークからきた新聞記者」のウィリアム・ホセア・バロウを新たな協力者とした。マーシュを米国科学アカデミー会長の座から引きずり下ろす工作をしていたコープであったが、幸運にもペンシルベニア大学で教職の地位を得ることに成功し、財政面で大いに助けとなった。この直後コープがマーシュのキャリアに致命的な一撃をくらわす機会が訪れた。 コープは、長年の間マーシュとパウエルが犯したミスや悪行をつづった詳細な記録をつけ続け、それを書き貯めて机の引き出しの下段にしまっていた。これを元にバロウは第一弾記事を企画した。それは後に新聞連載の形となり、マーシュ、パウエル、そしてコープの間の紙上議論へと発展していった。科学界はマーシュとコープのライバル関係について前々から知っていたが、ニューヨーク・ヘラルド紙に『Scientists Wage Bitter Warfare.(科学者たちの醜い争い)』と題する記事が掲載されたことにより、2人の恥さらしな行いは衆目に晒されることとなってしまった。作家エリザベス・ノーブル・ショル (Elizabeth Noble Shor) によると科学界は大きなショックを受けたという。 当時のほとんどの科学者は、マーシュとのコープの争いが一面のニュースになっていたことを知り、尻ごみしました。 議論の対象となった科学分野に最も近い、地質学者や古脊椎動物学者たちは確かに表情を曇らせたのです。特にコープやマーシュの論文を引用したり、言及したり、スペルミスしたりしていたような人たちはそうです。コープとマーシュの確執はこの分野で20年以上前からありつづけた問題でしたので、学者たちにとってはニュースでもなんでもありませんでした。学者たちの大部分はすでにどちらか一方の側についていたのです。 新聞記事でコープはマーシュを論文盗用や財政面失敗の点で非難し、パウエルに対しては地質学的分類の誤りや政府の補助金を浪費しているなどと攻撃した。マーシュとパウエルは互いに自分の側の話を発表しコープに反論した。結局バロウの記事は取材も記述内容も不充分であったことから衆目を集めるには至らず、今度はコープ自身もフィラデルフィア・インクワイアラー紙の記事でペンシルベニア大学評議員から「マーシュとパウエルにかけた嫌疑の証拠を提出しないと辞任せよ」と要求されるという目にあっていた。なおマーシュは一人ヘラルド紙上で激しい反論をつづけたが、1月も末になると新聞紙上を賑わすこともなくなり2人の熾烈なライバル関係にはほとんど変化はなかった。 結局パウエルによる予算の不適切な執行を調査する議会公聴会は開催されず、コープもマーシュも犯した誤りについて責任をとらされることはなかったが、マーシュに対するバロウの非難は歳出委員会による調査へと発展した。西部の干ばつによる反調査感情や放棄された西部農場の買収に対する懸念に直面したパウエルは自身が下院歳出委員会(英語版)の大掛かりな精査の対象となっていることを知ることとなった。歳出委員会は、マーシュの調査資金浪費に気付き、調査団に予算の内訳明細を提出するよう要求した。結果、予算は1892年にカットされ、パウエルはマーシュに辞任を求める簡素な電報を打った。同時期にマーシュの仲間たちもその多くが引退したり亡くなったりなどしたため、マーシュの科学的信頼度を裏付けるものが失われていった。こうしてマーシュがその浪費生活のつけを払わされそうになっていたころ、コープはテキサス地質調査会から資金援助を受けることに成功していた。未だヘラルド紙の問題で受けた個人攻撃のダメージが残っていたコープであったが、こうした運勢の変化がありながらも個人攻撃をやめることはなかった。1890年代初期、コープはライディが就いていた動物学教授の地位に昇格し、マーシュが科学アカデミー会長から退任した同じ年に全米科学振興協会 (National Association for the Advancement of Science) 会長に選出されるなど運気も上向きであった。しかし、1890年代後半にはマーシュが復権し古生物学における最高の賞であるキュヴィエ・メダル (Cuvier Medal) を獲得するなどコープは再度苦い思いを噛みしめることとなった。 コープとマーシュのライバル関係は1897年にコープが死去するまで続いたが、このときには両者とも経済的に破たんしていた。コープは晩年、消耗性の疾患にかかり、生活の糧を得るため所蔵していた化石の一部を売り払ったり所有していた家々のうち一軒を賃貸に出したりした。一方のマーシュも、自宅を抵当に入れなければならなくなり、イェール大に生活費を無心せざるをえなくなっていた。だがそうした状況のなかでも2人は強いライバル心を抱き続けていた。コープは死ぬ間際、マーシュに最後の挑戦をした。自分の脳の大きさを測ってもらうため、死後自分の頭蓋骨を解剖のために献体したのである。当時は脳の大きさが知性を測る真のバロメーターと考えられており、コープは自分の脳がマーシュよりも大きいことを願ってこうした行動をとったのであった。結局マーシュはこの挑戦を受けることはなく、伝えられるところによれば、コープの頭蓋骨は今もペンシルベニア大学に保管されているという。(なお同大学に現在保管されている頭骨が本当にコープのものかについては論争がある。大学側は本物の頭骨は1970年代に紛失したとしているが、古生物学者ロバート・T・バッカーは頭骨上の細い亀裂と検視官報告とにより頭骨はコープ本人のものだとしている。)
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