二十二年式村田連発銃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:48 UTC 版)
「二十二年式村田連発銃」は、当時の欧州各国で採用され始めた連発式軍用銃を研究するため、1889年(明治22年)に再度渡欧した村田経芳によって設計・製造された。 従来の黒色火薬にかわって無煙火薬を使用する小口径の8mm弾を使用し、銃身下部に8発収容の管状弾倉を持っていた。正式名称は「明治二十二年制定 大日本帝國村田連發銃」である。 撃発バネは単発銃の松葉バネからコイルバネに変更され、槓桿も小型化された。ライフリングは当時としては珍しかったメトフォード式を採用するなど、様々な新コンセプトを盛り込んだ意欲作であったが、軍用ライフル用弾倉として一時的に流行した管状弾倉を採用したことが、村田連発銃を短命に終わらせる原因となった。 管状弾倉の中では弾丸が前後に細長く並ぶ。このとき、前の弾丸の雷管を後ろの弾の頭が強く叩くと、暴発が発生する恐れがある。そこで先端を尖らせない平頭弾丸を用いる必要があり、雷管も十三年式の村田一号雷管に保護カバーを追加した専用の物が用いられた。この平頭弾丸が、命中率の低下をまねいた。二十二年式は欧州各国でも実用化されて間もなかった強力な無煙火薬を採用し、発射初速が一挙に上がっていた。そのため、弾丸の初速が遅いときには大きな問題にならなかった空気抵抗による弾道特性の悪化が生じた。弾の先端を尖らせればこの問題は解消でき、むしろ命中率の向上が期待できるのだが、二十二年式では平頭弾丸が裏目に出た。 また、管状弾倉は銃の前方に長く伸びていたので、1発撃つ毎に前が軽くなり、銃全体のバランスが変化してしまう。これもまた射撃の精度に悪影響を及ぼした。 二十二年式の管状弾倉は、現在の自動散弾銃などのように機関部下から弾薬を装填する機構ではなく、ボルトを開いて薬室側から弾を装填しなければならないため、弾薬の装填に時間が掛かり、装填時には射撃できないため、結果的には「多少弾が余分に持てる単発銃」程度の実用性しか得られなかったことや、給弾の信頼性にやや難があったことから兵士たちには不評であった。 散弾銃の場合には弾頭がケースの口巻きに保護されており弾倉内で雷管を叩く恐れがないことと元々長距離の狙撃を行うこと自体が少ないため、これらの欠点は通常殆ど問題になることはないのだが、村田連発銃は図らずも「無煙火薬を用いた近代ライフルには管状弾倉は全く不適」であることの良い実例となってしまった(これは同時期における、無煙火薬を使用した小銃としては世界初のフランスのルベルM1886ライフルにも当てはまる)。 管状弾倉を採用したことで銃身下のスペースが無くなったため、さく杖は短い物が銃床内部に収められており、清掃の際には数人がそれぞれのさく杖を繋ぎ合わせて交替で使用した。銃剣は十三年式から一挙に短縮化された二十二年式銃剣が採用された。また、現在の管状弾倉式の自動散弾銃に装備されているマガジンカットオフ機構に相当する機構もこの頃既に装備しており、槓桿脇の小さなレバーを回転させると送弾装置を停止させることができた。この機構を応用し、携行する際に薬室を解放して誤装填による事故を予防する、また通常は単発銃として用い危急の際に連発に切り換えるという運用が可能であった。一方、村田式騎兵銃で採用された安全装置は二十二年式では採用されなかった。近年の日本の研究者の報告では、弾道特性の良い尖頭弾丸を使用した実包での射撃では後年の軍用小銃に匹敵する集弾性が発揮されるなど、決して粗悪な作りの銃ではなかったが、コンセプトが余りにも一時的な流行を追いすぎたことが祟り、村田経芳の後輩である有坂成章がモーゼル式ボルトアクション小銃を参考に開発した三十年式歩兵銃が好評を博したことも相まって、軍制式としては極めて短命な8年という寿命に終わった。 村田連発銃の採用は、日清戦争がはじまった1894年(明治27年)で、出征した師団の装備には間に合わなかった。動員が遅くなった近衛師団と第4師団が受領したが、両師団は実戦に参加しなかったため、日清戦争で用いられる機会はなかった。 台湾鎮定戦、北清事変で用いられた記録が残る。 日露戦争の前後には後備歩兵と後備工兵および海軍陸戦隊が村田連発銃を装備した。戦争中に当時の主力小銃であった三十年式歩兵銃に交換されていったが、奉天会戦に参加した後備歩兵の相当数がなお旧式の銃を装備していた。 また、十三年式・十八年式村田銃と異なり三十年式歩兵銃配備後も後方部隊及び教練用銃として軍で保管された後に、当時の財閥や陸軍の中古兵器を取り扱った泰平組合などを通じて主に中国へ輸出され、散弾銃化されて民間に出回ることも無かったため、現存する銃・銃剣は国内外共に極めて少なく、程度の良い物は米国内でも高値で取引されている。 村田式連発銃の実戦における運用方法などについては、近代デジタルライブラリーに所蔵されている明治20年代後半から30年代に掛けての村田連発銃の各種の解説書に詳しく記されており、同書によると搬筒匙軸轉把(はんとうひじくてんは、マガジンカットオフレバー)の操作は指揮官の「連発」「単発」の号令で切り替えるものとされており、射撃戦時の連発射撃及び単発射撃への相互の移行は「連発込め」「単発込め」の号令で轉把を切り替える事で行われ、カットオフを作動させたままにしておくことで、従来の村田単発銃と同様の射撃術及び射撃指揮も行えた。 また、村田連発銃は弾倉への満装填後直ちに連発射撃を開始したい場合(「特別な場合」とも記載される)は弾倉内に8発込めた後に搬筒匙(はんとうひ、キャリアー)に1発を載せ、更に薬室に1発を直接装填し、轉把を連発位置(銃身と水平)のままとして槓桿を閉鎖し射撃開始する事で、最大10連発とする事も出来たが、兵士個々人の指の太さの違いにより弾倉への装填がしにくい場合には、キャリアーに乗せた実包を次に装填する実包の弾頭部分で押し込んでいく事で装填する方法が指定されていた。弾倉からの抜弾は轉把を連発位置に切り替え、何度も遊底を開閉する事で行ったが、騎兵においては「打ち方やめ」の号令の後に薬室と搬筒匙に残った実包を指で再び弾倉内に戻す方法を取ってもよいとされた。 村田連発銃は安全装置が装備されておらず、騎銃においても村田単発騎銃のような撃茎の前進を阻止する機構(避害器)は追加されなかったが、搬筒匙軸轉把を使う事でその代用とする事が出来た。弾倉のみに装填した後に轉把を単発位置(銃身と垂直)に切り替え、搬筒匙を起こした状態で固定して連発機構を停止させてしまえば、槓桿をいくら操作しても射撃が行えず、単発銃のように意図的に薬室に直接装填するか、過度の衝撃で弾倉内の実包の雷管が弾頭で突かれて誘爆しない限りは暴発も起こり得なくなる為、小銃・騎兵銃共に通常は弾倉に満装填後は連発機構を停止させ、薬室と搬筒匙に実包が無い事を確認した上で遊底を閉鎖し、撃鉄を降ろす操作を行った後に携行する事が指示されている。 騎兵においては馬上では連発射撃を基本とし、単発射撃は原則として行わない事とされた。また、特別な場合においては小銃同様にキャリアーと薬室に1発ずつ装填し7連発とできる事も記述されているが、前述の搬筒匙軸轉把を用いた安全装置が使えない為か、「馬上に於いては2発の追加は行わないこと」も併記されている。 これらの一連の操作は現在のマガジンカットオフ機構付きの半自動式散弾銃を運用する際もおおむね同じ方法が採られているが、後年の有坂銃は装填はストリッパークリップによる押し込み、弾倉からの抜弾はマガジンフォロワープレートを開閉する事でより簡単に行えた。また、搬筒匙軸轉把を用いた安全装置も、安全解除(連発位置への切り替え)後に射撃を開始する際には必ず一度遊底の開閉を行う事で再コックと薬室への送弾を行う必要があり、薬室に装填してコッキング状態のまま安全装置を掛ける事が出来る有坂銃よりも初弾の発射では後れを取る事になる。有坂銃は最大装填数でこそ村田連発銃より劣るものの、上記のような複雑な運用手順の把握が不要で装填・抜弾共に村田連発銃よりも遥かに素早かった事から、三十年式歩兵銃・同騎兵銃の登場後は二十二年式は極めて早期に第一線の部隊からは姿を消していった。
※この「二十二年式村田連発銃」の解説は、「村田銃」の解説の一部です。
「二十二年式村田連発銃」を含む「村田銃」の記事については、「村田銃」の概要を参照ください。
- 二十二年式村田連發銃のページへのリンク