ワールドカップ出場、磐田の黄金期を築くとは? わかりやすく解説

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ワールドカップ出場、磐田の黄金期を築く

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)

中山雅史」の記事における「ワールドカップ出場、磐田の黄金期を築く」の解説

1998年リーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居陸上競技場)での5得点Jリーグリーグ戦における「1試合1人での最多得点タイ記録)を皮切りに4月18日の対サンフレッチェ広島戦(ジュビロ磐田スタジアム)で4得点4月25日の対アビスパ福岡戦(熊本市水前寺競技場)で4得点4月29日の対コンサドーレ札幌戦(ジュビロ磐田スタジアム)で3得点と4試合連続ハットトリック記録しギネスブック掲載された(2016年11月クロアチア東部地域リーグであるドラーチチェ・ジャコボ所属FWステファン・ルチヤニッチが5試合連続ハットトリック達成して記録塗り替えられている)。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献ワールドカップでの骨折のためナビスコカップ優勝ピッチ味わえなかったものの、後半戦1試合1点ペース得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場36得点(現在でもリーグ戦最多得点記録)を記録し当年度得点王MVP獲得など個人タイトル総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年雪辱期する鹿島敗れリーグ優勝逃す1999年Jリーグ選手協会副会長就任コパ・アメリカ招待され日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折帰国し手術失明寸前重傷復帰まで1年近くはかかる、という医師制止振り切って2ヵ月復帰したそれ以外にも手の骨折など怪我苦しみ満身創痍ながらも、清水とのチャンピオンシップでは2ゴール挙げ制覇貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった2000年前期は故障もあって思うよう活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力発揮しJ通算100ゴール達成11月23日サンフレッチェ広島戦で自身通算7回目となるハットトリック記録するなど、シーズン通算でも20得点記録しJリーグ史上初の2回目得点王獲得する。なお、2月16日行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリック記録し国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブック掲載された(これ以前記録は、1938年11月16日イングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒である)。 2001年井原正巳代わりJリーグ選手協会会長就任前年からの好調続け代表にも復帰クラブは第1ステージ圧勝し第2ステージ2位年間通して強さ発揮するが、チャンピオンシップ鹿島敗れ年間優勝をのがす。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスPK戦の末敗れるなど、無冠に終わる。 2002年W杯からのリーグ再開後にはゴール量産し得点王となったチームメイト高原直泰次ぎ日本人としては2位となる16ゴール上げ磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝貢献ベストイレブンにも選出された。 2003年5月10年前恥骨結合炎再発し戦線離脱半年リハビリの末、終盤戦復帰復帰初戦となった東京ヴェルディ1969戦では、試合中にも関わらず中山ユニホーム姿になると場内騒然とした相手DF米山篤志は「あれは異様な雰囲気だった」とコメントするほどだった。試合後、監督柳下正明は「当初はこの試合では(中山を)起用しないつもりだった」としたうえで「エリア内では仕事をするのでそこに賭けた」とコメント事実投入直後コーナーキック磐田同点追いつき、その勢いのまま逆転勝利収めている。しかしながら最終節横浜FM敗れたことによりリーグ戦優勝逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来優勝貢献した2005年5月1日柏レイソル戦(柏の葉公園総合競技場)での前半2分、自らが倒され得たPK決めJリーグ史上初の個人150ゴール達成する9月24日戦(ヤマハスタジアム)では、Jリーグ15人目フォワードとしては史上初)の300試合出場達成久々にほぼフルシーズン稼動した。 2006年9月17日川崎フロンターレ戦(等々力陸上競技場)の後半32分に得点挙げ磐田Jリーグ加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴール達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日ナビスコカップ大宮アルディージャ戦で達成)。この記録過去三浦知良2006年当時J2横浜FCシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録断絶している)、澤登正朗2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。 2007年には5月3日清水エスパルス戦(日本平スタジアム)の前半22分にPK決めJ1リーグ戦史上初となる14年連続ゴール達成した。このゴール時の年齢39歳7か月10日で、同年5月12日当時40歳2か月16日三浦知良ゴール決めるまでJリーグ日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日2001年から続けてきた選手協会会長職を藤田俊哉譲り名誉会長就任した2008年3月15日ガンバ大阪戦でロスタイムゴール挙げJ1リーグ15年連続ゴール達成歴代3位となる自身ゴール年齢記録伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史最年長ゴール記録ジーコ41歳3か月2位その後40歳6か月まで記録伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップ清水エスパルス戦で、後半43分にCKヘディング決めて40歳7か月13日最年長ゴール記録保持していたジーコ抜いてナビスコカップ最年長ゴール記録塗り替える中山40歳8か月2日)で、快挙達成したが、試合には敗れたため、本人から喜び言葉はなかった。また、この得点2018年現在中山公式戦挙げた最後得点となっている。 2009年シーズン出場機会激減自身同年42歳高齢となったこともあり、11月9日磐田から戦力外通告を受け、同時にスタッフとして残留要請受けた。しかし現役続行に強い意欲を示す中山はこれを断り新天地探すことを選択したまた、この年中山同じく磐田Jリーグ加盟した1994年から在籍しこの年時点中山と共に2002年完全優勝を知る選手であった鈴木秀人戦力外通告受けた同年ヤマハスタジアムでの公式戦最終戦となった11月28日広島戦後半途中から出場し当時ラモス瑠偉保持していたJ1最年長出場記録41歳9か月5日)を更新42歳2か月5日)。試合後には中山挨拶行ないサポーターへの感謝現役続行への意欲表明した最終節ヴィッセル神戸戦(ホームズスタジアム神戸)での出場機会回ってこなかったが、試合両チームサポーター声援応え1万5000人の拍手浴びながら磐田での最後試合終えた

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