フランクフルト国民議会とは? わかりやすく解説

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フランクフルト国民議会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 06:48 UTC 版)

ドイツにおける1848年革命」の記事における「フランクフルト国民議会」の解説

バーデン西南ドイツ)のハイデルベルクにおいて、1848年3月5日ドイツ自由主義者一団ドイツ国民議会選挙計画立て始めた。まもなく起こったウィーン三月革命ドイツ語版)はドイツ諸邦における革命起爆剤となり、民衆からの民選代議政治ドイツ統一要求に対して危機感覚えたドイツ諸邦王侯貴族一部改革要求譲歩した準備議会ドイツ語版)の召集認められ1848年3月31日から1848年4月4日にかけてフランクフルトパウロ教会において「ドイツ国民基本的諸権利と諸要求(Grundrechte und Forderungen des deutschen Volkes)と題する新憲法起草された。準備議会議員大多数立憲君主主義者であったバーデンはフリードリヒ・ヘッカー(ドイツ語版)、グスタフ・シュトルーヴェ(ドイツ語版)ら2人民主主義者を準備議会送ったが、2人進歩的でない議会失望し抗議する形で4月2日退場した抗議退場ドイツにおける革命激化拍車かけられて、準備議会汎ゲルマン主義的(全国的)な国民議会自由選挙要求する決議可決しドイツ諸邦同意した1848年4月8日準備議会普通選挙二段間接選挙投票方法容認する選挙法承認した。 ヘッカーとシュトルーヴェ帰国後、バーデンでは共和主義者による騒擾扇動続いていた。暴動の拡大恐れてバーデン政府軍備増強し隣邦支援求め始めたバーデン政府反乱鎮圧すべく、騒擾指導者であるジャーナリスト民主主義者のヨーゼフ・フィックラー(ドイツ語版)を逮捕した。この逮捕には憤慨抗議の声が上がり1848年4月12日全面蜂起のヘッカー蜂起(Heckeraufstand)が起こったバーデン政府ヴュルテンベルク軍やヘッセン=ダルムシュタット軍の支援得て1848年4月20日、カンダーン(ドイツ語版)においてフリードリヒ・ヘッカー率い革命軍鎮圧することに成功した1849年5月にもバーデン革命運動再燃したが、これはプファルツにおける蜂起後述)と深く関わっていた。 1848年4月末から5月初めにかけてドイツ諸邦からフランクフルト国民議会の議員選出され議員構成官僚122人、判事95人、弁護士81人、教師103人、製造業者および卸売業者17人、医者15人、地主40であった議会大多数自由主義者であり、職業政治家はごく少数であった1848年5月18日、フランクフルト国民議会がフランクフルト・アム・マインパウロ教会召集された。議員多く教授教師ないし大学出身者であったことから「教授会議」 (Professorenparlament) と呼ばれた。フランクフルト国民議会議員選出された者の中には中央右派ジャーナリストのカール・マーティ(ドイツ語版)もいた。自由主義政治家のハインリヒ・フォン・ガーゲルン(ドイツ語版議長の下、国民議会ドイツ統一への道を模索し憲法制定当たった国民議会副議長にはユダヤ人のガブリエル・リーサ−、治安委員会議長にはアドルフ・フェッシュホーフが就任し、その他ジーモン議員ヤコービ議員などユダヤ人政治家活躍した中心課題は分邦主義ドイツ語版)、汎ゲルマン主義関わる地域紛争支持、普墺両国対立ドイツ語版であったオーストリア大公ヨハン一時的な国家元首帝国摂政」 (de:Reichsverweser) に選ばれ臨時中央政府 (Provisorische Zentralgewalt) の設立試みられたが、多くドイツ諸邦新政府を十分承認しなかったため、有名無実であった。 しかし、フランクフルト国民議会はドイツ支配階層多種多様な利害反映したため、党派対立激しくなり、議員協力して特定の目標追求することができなかった。大ドイツ主義者対小ドイツ主義者、カトリックプロテスタントオーストリア支持者プロイセン支持者等などの対立、そして民主的な憲法制定という急進主義者と諸君主との協議による改革求め自由主義者との対立があった 最初対立国民議会目標について生じ穏健な自由主義者諸君主に提案すべき憲法協定憲法)を起草することを望んだが、急進派国民議会自ら憲法制定権力宣言して憲法民定憲法)を制定することを望んだ両者不一致克服できず、国民議会採決不可能な態となり、平行線議論陥ったフランス革命既成国民国家をてこにしていたが、1848年ドイツにおける民主主義的自由主義的勢力国民国家建設憲法制定の必要を同時に迫られ重荷を負わされていた。 ガーゲルン議長中央右派統一主義者党派から強い支持を得ながら左派穏健主義者への影響力もあり、議員のうち250人に影響力行使できた。ガーゲルンはドイツ統一強く主張したが、国民議会反動極める諸君主の合意を得る必要があった。その上プロイセン王国だけが統一達成必要な軍事力保有していたが、ガーゲルンを含む国民議会多くプロイセン思惑専制政治不信抱いていた。諸君主の官公吏としての役職を失うことを恐れて穏健な自由主義者君民協議によってのみ政治的進歩導かれる即断した。 フランクフルト国民議会は諸君主に依存していた。議員多く地方重役に就いており、急進的改革主君不興買ったりすることを嫌い、軍資金調達できなかったり、法案可決しても実効性確保できなかったりした。武装蜂起必要だ信じ急進主義者は国民議会去り地方レベルで兵を募って真の革命成し遂げようとしたが、官界につてなく金銭調達できなかった。 フランクフルト国民議会はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争契機崩壊していった。1848年3月21日コペンハーゲン民衆自由主義的な憲法要求して街頭で暴動起こした三月革命ドイツ語版))。デンマーク領のうちホルシュタインシュレースヴィヒ南部住民大多数ドイツ語話者であり、キールホルシュタイン市民コペンハーゲン何が起こっているのか確信がなかったが、ドイツ諸邦と近い関係をもつ分離独立した邦の創設目指す反乱起こした1848年3月24日ホルシュタイン新し臨時自治政府ドイツ語版)が樹立され兵力7,000人のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン軍(ドイツ語版)を召集したドイツ諸邦における統一論シュレースヴィヒホルシュタイン公国併合支持した。フランクフルト国民議会は1848年6月14日ドイツ海軍「ライヒスフロッテ」 (Reichsflotte) の建軍同意したプロイセンはこの独立運動援軍送ったが、イギリスロシア戦争終結するように国際的圧力をかけるとフランクフルト国民議会を無視したプロイセンマルメ講和条約調印し、両公国からの全プロイセン軍の撤退その他のデンマークの全要求認められた。マルメ条約国民議会でも論争となったが、1848年9月16日賛成多数により条約承認した。この採決後に急進的な共和主義者国民議会に対して公然と敵対し始めた

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