トヨタ自動車時代とは? わかりやすく解説

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トヨタ自動車時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:20 UTC 版)

古田敦也」の記事における「トヨタ自動車時代」の解説

1988年4月トヨタ自動車入社した古田人事部配属され野球部練習が無い時間帯には従業員トラブル処理や社内レクリエーション企画・運営などに従事していた。新人研修ではディーラー営業仕事もした。古田社会人野球時代経たことで普通の金銭感覚が身につき、当時経験プロ入り後にも役立っていたと語っている。 トヨタ自動車硬式野球部では1年目から正捕手任され主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍8月行われたソウルオリンピック野球公開競技日本代表となるが、古田当時「(プロに行くために)五輪メンバー選ばれないといけない」と考えジャパン監督誰かバッテリーコーチ誰か調べて野球観を調べた。すると「元気があって、国際大会環境の悪い中でもへこたれないあきらめないやつが好きだ」との情報得て、すぐに実行何十人と来る選考会で「ボール回しでも“ヤー”とか言いながら、一生懸命声出し野球をやった」。そして、見事に日本代表の座を射止め野茂英雄潮崎哲也らとバッテリー組み決勝アメリカ敗れたものの、銀メダル獲得貢献した古田1989年ドラフト会議際し巨人ヤクルト希望していると報じられた。ヤクルト大卒時の1987年ドラフトでも古田指名候補入れていたが、この時は2位上でないとプロ入りしないとの情報受けて事前に撤退したとされている。ただし、この時のドラフトヤクルトから1位指名された長嶋一茂によれば立教大学先輩で父の茂雄とも親しかったスカウト部長の片岡宏雄に「古田くんをなぜ獲得しないんですか?」と聞いたところ、「メガネだ。目」とメガネ理由であることを聞かされ疑問思った語っている。 当時ヤクルト野手陣関根潤三監督の下で池山隆寛広沢克己若手急成長次々とレギュラー獲得して着実に陣容強化されていたが、その中で唯一残されていた課題捕手だった。ベテラン八重樫幸雄の後の正捕手の座を争っていたのは主に秦真司中西親志二人だったが、秦は打撃優れるが守備難で捕逸多く中西捕球優れるが打撃打率二割満たない非力さで、さらに両者共に盗塁阻止率低かったので、強肩好守即戦力捕手獲得急務だった。自身捕手だった片岡スカウト部長は、オリンピック経験積んで進境著し古田プレー惚れ込んで獲得動き担当スカウト羅本新二古田との交渉進めさせ、夏の編成会議相馬和夫球団社長田口周球団代表関根監督球団首脳古田強く推薦して了承取り付け古田2位指名内定した古田トヨタへ挨拶訪れた片岡からドラフト指名意思正式に伝えられたが、大卒時にプロ球団の裏切りに遭っていた古田不信感拭い去ることができず「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も片岡念を押している。 しかし、10月相馬田口推す若松勉ではなくヤクルト本社社長桑原潤推す野村克也が新監督就任する状況一変する野村大学の間に変なクセがついてしまう傾向があるなどとして「大学出に名捕手はいない」という持論展開しており、就任直後の『週刊ベースボール』の取材に対しても、高卒4年目強肩若手飯田哲也を自らの手で正捕手育て上げるという構想示していた。そして大卒社会人眼鏡をかけている古田指名をやめるよう要求してきたが、片岡は「古田との約束を破ることになるのでそれはできない」と反発球団幹部古田指名方針を崩さなかった。片岡指名直前にも野村が「古田はやめよう捕手ワシ育てる」と食い下がった語っているが、ヤクルト当初の予定通り古田2位指名した。 これに対し野村自著で、就任直後ドラフト際し自分片岡今年ドラフト候補良い捕手はいないのかと質したところ、片岡古田の名前を出してメガネをかけているんですが…」「打撃には目をつぶってもらえますか」と言ってきたので、メガネをかけていても問題は無いと言って古田獲得するよう命じた主張。また古田との対談でも「編成部長(※スカウト部長の誤り)に『いいキャッチャーいないか?』って言ったら、『一人ます。でも、メガネかけているんですよね』って。これが、後々俺が大反対しているように言われて。俺言ったことないから」と大笑いし、「今、コンタクトもあるし、レンズ軽量化して問題じゃないのに、そんなこと言う訳ない。あれには参った。それで編成部長が言うのよ。『バッティングは目をつぶってくれますか?』って。まあ、キャッチャー守れて、頭よくて、肩が強ければそれで十分って言って、それで(古田獲得に)いこうって。まさか獲れるとは思わなかったけど、これも一つの縁だよね」と主張し上記片岡意見とは対立している。 そもそも野村片岡の間には同年ドラフトでの黒須陽一郎をめぐる一連の問題発端とするドラフト指名戦略違い片岡懇意にしていた立大野球部一つ上の先輩でもある長嶋茂雄対す野村度重なる挑発、そしてその息子一茂扱いへの不満など、様々な問題巡って根深い確執があり、古田指名の件についても当時ヤクルトスカウトだった鳥原公二(後にスカウト部長)は「野村ドラフト前会議まで古田との指名約束があること自体知らなかったため、会議では「もう決めている選手がいる」と訴えスカウト側との間で攻防があった。古田指名についても野村は「メガネをかけているなぁ」と独り言つぶやいただけで、メガネダメという話はなかった」と片岡とは異なる見解述べている。

※この「トヨタ自動車時代」の解説は、「古田敦也」の解説の一部です。
「トヨタ自動車時代」を含む「古田敦也」の記事については、「古田敦也」の概要を参照ください。

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