トヨタ自販社長就任後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 09:57 UTC 版)
トヨタ自動車は経営危機に見舞われた1950年(昭和25年)、経営立て直しのため、製造部門(トヨタ自動車工業=トヨタ自工)と販売部門を分離する「工販分離」に踏み切る。販売部門は「トヨタ自動車販売」(トヨタ自販)となり、神谷は初代の社長となった。 神谷は系列ディーラー各社を指導してサービス体制の向上に努めると共に、自動車の販売施策として「定価販売」「月賦販売」を本格的に取り入れ、これは他メーカーも追随することとなった。さらに販売店についても、これまでの「1県1社のフランチャイズ」から「マルチチャンネル」への移行を掲げ、その結果誕生したのがトヨペット店第1号と成る、トヨタ直営の東京トヨペット(現:トヨタモビリティ東京)である。以後トヨタ自販は日本国内での大規模なマルチチャンネル化を推進し、強力な販売店網を構築することで、戦後モータリゼーションの潮流に与し、生産側の自工共々業績を拡大していくことになる。後に「営業のトヨタ」「販売のトヨタ」と評される由縁であるが、その基礎は神谷の方針に端を発する。 また自動車の商品性をも重視しており、大衆車普及の時代となった1960年代中期、新型ファミリーカー「カローラ」の開発にあたっては営業サイドからの要望として「ライバルの日産・サニーよりエンジン排気量が上回るように」と強く主張、結局サニーの1000ccに対してカローラは1100ccで開発・発売され、大ヒット商品となった。 更に自動車を取り巻く環境の整備にも力を注ぎ、運転教習所(中部日本自動車学校)や自動車整備士養成学校(現在の専門学校トヨタ東京自動車大学校など)、アメリカのスタンダード・バキューム社(現在のエクソンモービルの前身)との提携による純正オイルブランド「キヤッスル」の創設に大きく携わった。この関係からキヤッスルの商標は現在でもエクソンモービルが権利者となっている。 長年「自販」社長として辣腕を振るったが、1975年に会長となり経営の第一線からは退いた。最晩年の「工販合併」直前の1979年に名誉会長となっている。 トヨタ以外では1956年(昭和31年)に通商産業省顧問(翌年まで)、1961年(昭和36年)には名古屋放送(現在の名古屋テレビ放送(メ~テレ))設立にあたって取締役社長となった。さらに日本自動車工業会理事、日本とインドネシアの合弁企業「ジャパンインドネシアオイル」の社長も歴任した。また、1970年(昭和45年)には、神谷の発願によりトヨタ自動車関係者らが寄進して、交通安全の祈願と交通事故遭難者の慰霊のため、長野県茅野市に蓼科山聖光寺を創建した。 1960年(昭和35年)に藍綬褒章を受章、1962年(昭和37年)に紺綬褒章を受章、1967年(昭和42年)に輸出振興内閣総理大臣表彰を受賞、1968年(昭和43年)に勲二等旭日重光章を受章、1973年(昭和48年)に勲一等瑞宝章を受章した。1980年従三位。 なお、神谷の個人商店的存在として東京・銀座に賃貸不動産業を核とした複合企業(中古車販売・インドアゴルフ場・ペットサロン)の丸八殖産が存在する。
※この「トヨタ自販社長就任後」の解説は、「神谷正太郎」の解説の一部です。
「トヨタ自販社長就任後」を含む「神谷正太郎」の記事については、「神谷正太郎」の概要を参照ください。
- トヨタ自販社長就任後のページへのリンク