ウクライナ解放
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1943年9月、第1戦車軍の一部隊としてヴォロネジ戦線に加わっていた第1親衛戦車旅団は、短期間最高司令部予備に転属となった。11月、2ヵ月ほどで最高司令部予備から第1ウクライナ戦線へ移された旅団は、新たに発動された攻勢作戦であるジトーミル=ベルディーチェフ攻勢(ロシア語版)に主戦力として参戦した。この時までに旅団の戦力が補充され、G・ブトフ親衛上級中尉が率いる第3戦車大隊も加わった。 12月、第1親衛戦車旅団はウクライナのジトーミルやヴィニツィアなどの地域を解放するため、戦闘の火ぶたを切った。12月24日の朝、第78親衛狙撃兵師団と第100狙撃兵師団(ロシア語版)がドイツの防衛線を破り、第1親衛戦車旅団は第8親衛機械化軍団(ロシア語版)の先陣を切ってカザーティンにある突破口へ突入した。 第1親衛戦車旅団の先頭をいくのはゲオルギー・ベッサラボフ親衛中尉とエフゲニー・コスティリョーフ親衛大尉が指揮を執る2つの戦車部隊だった。12月25日の朝、コスティリョーフの部隊はコルニン(ロシア語版)地域を流れるイルピン川を渡河し、旅団の主力部隊が到着するまで橋頭堡の防衛に努めた。同日、彼の部隊はツルボフカ(ロシア語版)に拠点を置いていたドイツ軍部隊を一掃している。旅団の主力部隊はこの位置からノーヴァヤ・グレブリャ(ロシア語版)村を解放し、夕方にはリプキ(ロシア語版)北部に続く鉄道に沿って第25装甲師団(ロシア語版)を撃破、キロフカやロゾヴィキなどの居住地を占領した。さらにその日の夜、ドイツ軍の混乱に乗じて、ウラジーミル・ゴレロフ親衛中佐とニコライ・ガヴリシュコ親衛大尉率いる旅団の戦車11両が、キエフ地域やポペリニャ(ロシア語版)の駅周辺域なども占領している。 12月27日、第1親衛戦車旅団の第1戦車大隊がヴォイトヴィツィの集落を、第3大隊がソキリチャを押さえた。12月28日から29日にかけ、第19装甲師団(ロシア語版)と第20機械化師団の後方部隊を撃破した旅団は、マハルディンツィ駅を奪取してカザーティン東部へ進軍し、鉄道駅などを占領した。なお、29日のカザーティンでの戦闘でゲオルギー・ベッサラボフ親衛上級中尉が戦死したが、彼は通算12両の戦車を撃破したエースであった。 1944年1月4日から5日にかけて、旅団はリポヴェツ(ロシア語版)の鉄道駅とテルマン名称国営農場を占領した。1月6日の夜、8両のT-34(N・ニジニク親衛上級中尉指揮)がヴィニツィア州のイリンツィを含むいくつかの居住地を解放し、ソブ(ロシア語版)川を渡河した。 1月、旅団はツィヴロフ(ロシア語版)、ジュメーリンカ、ジューコフツィ(ロシア語版)を襲撃した。1月9日から10日にかけて、V・M・ゴレロフは10両のT-34と付属の自走砲を率いて敵の後方を60kmにわたって攻撃し、南ブーフ川にいたドイツ軍を破っている。その後、ドイツ軍司令部が予備兵力を置く主要道路の分岐点であるジュメーリンカより、南東5kmにあるノヴォ=ペトロフスクへ移動した。ジュメーリンカ市内には100両以上のドイツ戦車が集っていた。ゴレロフは、上層部との連絡がつかないため、旅団司令官の判断としてジュメーリンカへの攻撃を決定した。ここでドイツ軍を足止めしたため、予備兵力が東部へ移送されるのを1日遅延させることに成功している。旅団は3個歩兵師団を相手に交戦し、飛行場を破壊した後、包囲網から脱出した。 第1親衛戦車旅団は1943年12月24日から1944年1月16日までの間に、戦車78両、自走砲29門、火砲93門、装甲車両29両、貨物運搬車900台以上を撃破し、将軍1人を含む500人以上を捕虜としている。旅団側は29両の戦車を失った。なお、工兵部隊によって69両の戦車と数十台の軍用車両が戦闘中に修復されている。 1944年2月、第1親衛戦車旅団は短期間第1戦車軍の予備部隊に下げられた。その後ズバラジ(ロシア語版)へ向け200km進軍し、プロスクーロフ=チェルノフツィー攻勢(ロシア語版)で戦線に復帰した。3月20日より、第1ウクライナ戦線の各部隊は西部ウクライナ解放に向けた作戦を開始した。旅団はドニエストル川に展開するドイツ軍の後方部隊に攻撃を加え、チェルトコフ(ロシア語版)を解放して本隊到達まで守り抜いた。 3月21日の早朝、第1親衛戦車旅団の第1、第2戦車大隊は、ドイツの第359歩兵師団(英語版)の抵抗を退けてタルノーポリ付近の防衛線を突破した。春の雪解けの中で、旅団はテレブナ川(ロシア語版)を強行渡河し、その日のうちにコズイェフカを占領すると、翌朝には地区中心部とトレンボウリャの鉄道駅を急襲して制圧した。イヴァン・クリディン(ロシア語版)上級中尉率いる第1大隊は、北西からコピチンツィ(ロシア語版)に接近し、第17装甲師団(ロシア語版)の車列を捕捉した。V・V・ボチュコフスキー率いる第2大隊は、コピチンツィ=チェルトコフ間を結ぶ幹線道路を遮断した。 旅団は軍の前衛に位置し、戦闘の最も重要な局面を逃すことは許されなかった。カメラは常にスタンバイしており、いつでも撮影できるようになっていた…。 チェルトコフに通じる分岐点で停止した。郊外では、すでに戦いが始まっていた。…突然、どこからかドイツの戦車が飛び出してきた。私たちを見たドイツ兵はすぐに戦車を切り返し、反対方向へと進んでいった。 「なあ、セリョージャ、ファシストどもにソ連の『サーティーフォー』の走りを見せつけてやれ!」と、ゴレロフは言った。セルゲイ・ソロヴョーフにそれ以上の説明は不要だ。彼の戦車は走り出し、ファシストたちを追った。数分後、ソロヴョーフが戦車を牽引して運んできた。 ――戦場特派員の回想録より、V・E・シュミロフ(ロシア語版) 激戦の末にコピチンツィを解放した旅団は、3月23日の早朝、ドニエストル川およびウクライナ国境周辺地域に残る敵の抵抗拠点であるチェルトコフへ向かった。ゴレロフは、防衛のため重戦車部隊を先に町へ派遣し、続く部隊は敵の反撃が予想される東部地域で陽動作戦を発動して、主力部隊をもって北部方面から敵を攻撃する決定を下した。 コスティリョーフ率いる戦車中隊が、高速度で東部地域へ侵入して陽動作戦を発動している間、クリディンやシリク(ロシア語版)、ヴェリョーフキン、シヴァシュ、ムシヒンらの車両は山の斜面を下って北部方面へ回り込んだ。アレクサンドル・デグチャレフ(ロシア語版)のT-34が、落橋に失敗し炎上するセレト川の橋を渡って最初にチェルトコフへ侵入した。混乱するチェルトコフでの戦闘によって、カバルド・カルダノフ(ロシア語版)親衛中尉とアレクサンドル・デグチャレフ親衛少尉が戦死している。最終的に、旅団はチェルトコフの占領に成功した。 この戦いにおける活躍によって、第1親衛戦車旅団には「チェルトコフスカヤ」の名誉称号が与えられ、以下の3人の戦車兵にソ連邦英雄称号が贈られている。 戦車大隊副司令官ウラジーミル・ボチコフスキー(ロシア語版)親衛大尉 戦車大隊司令官ニコライ・ガヴリシュコ(ロシア語版)親衛少佐 戦車小隊司令官カバルド・カルダノフ(ロシア語版)親衛中尉(追贈) カトゥコフは、旅団司令官のゴレロフについて、「第1親衛戦車旅団は司令官に恵まれていた。ゴレロフは若いにもかかわらず経験豊富で毅然と振る舞い、機知に富んだ司令官だった。私はいつもゴレロフを戦闘の重要局面に送り込んでいたが、それに理由がないわけではなかった。」と振り返っている。 チェルトコフに設置されているモニュメント 同日、南西方面でも急速な攻勢が展開された。第7装甲師団(ロシア語版)および第1SS装甲師団の貨物を積んだ列車を制圧し、ヤゲリニツァ(ウクライナ語版)とヴァルヴァリンツィの駅を占領した旅団の分遣隊は、ウスチェチコ(ロシア語版)村郊外のドニエストル川沿岸へ向かった。ドニエストル川に架かる橋は爆破され落橋していたため、クリディン親衛上級中尉率いる部隊が渡河可能な浅瀬を探した。クリディンはその最中、偵察のため戦車から離れたときに被弾し、戦死している。 3月25日、ガヴリシュコ親衛大尉率いる15両のT-34がドニエストル川を渡河し、同日中にゴロデンカ(ロシア語版)の町を占領した。ゴロデンカでは、300人の捕虜に加えて、製糖工場および砂糖を積載した運搬車500台を制圧している。 3月27日、ボチュコフスキー親衛大尉率いる7両のT-34がチェルナーツィン(ロシア語版)、ソロキ(ロシア語版)、フヴォジディエツを解放し、チェルニャヴァ川を渡河してドイツ軍の拠点であるプリカルパチア(ロシア語版)のコロミヤ(ロシア語版)に接近した。しかし、敵部隊や兵器が潤沢なこの町をすぐ占領することはできなかったため、旅団司令官のゴレロフは第1戦車大隊から4両の戦車を派遣した。 3月28日未明、迂回したボチュコフスキーの増援部隊は、敵の激しい抵抗を破ってコロミヤを占領し、セレト川における渡河路を確保した。このとき、ドゥホフ、カタエフ、イグナチェフ、シャルライ、ボリシャコフ、ヴェルホヴェンコなどの隊員が勇敢に戦い、作戦を成功に導いた。1944年4月8日、コロミヤでの戦功が評価された第1親衛戦車旅団には、ソビエト連邦最高会議幹部会令により2等ボグダン・フメリニツキー勲章が授与された。また、戦車指揮官アンドレイ・イグナチェフ(ロシア語版)親衛少尉と戦車砲塔指揮官アンドレイ・ゼムリャノフ(ロシア語版)親衛軍曹がソ連邦英雄に列せられた。作戦を遂行したボチュコフスキー親衛大尉には、ソビエト連邦軍最高総司令官から公式命令が下された。 コロミヤ解放後はすぐさまスタニスラーウ(現イヴァーノ=フランキーウシク)へ移動したが、ここはかつて第1親衛戦車旅団の古参兵たちが戦争を始めた場所である。3月29日、旅団の第1戦車大隊は敵の援護部隊を打ち破り、地区中心部とナドヴォルナヤ駅を占領した。また、ボゴロドチャヌィ(ロシア語版)郊外では、1000台にもおよぶドイツ軍の車列を制圧している。コロミヤから移動してきた第2戦車大隊との合流後は幹線道路を進み、3月30日の夕方までにスタニスラーウ南部へ到着した。 最大で20両ものティーガー重戦車、自走砲、要塞化されたトーチカなどで守り固められたスタニスラーウでは、旅団部隊侵入後に激しい戦闘となった。特に3月31日は市街地で一晩中激戦が続き、ドゥホフ率いる戦車小隊が、戦車3両、火砲4門、車両40台を撃破する戦果をあげた。しかしながら、ティーガー2両との戦いでは苦戦を強いられ、ドミトリー・シリク(ロシア語版)親衛上級中尉、ユーリー・ヴェリョーフキン親衛中尉、機械技師・操縦士(ロシア語版)のドミトリー・コチュベイら多くの隊員を失っている。明け方にはドイツ空軍の航空部隊による対戦車攻撃も開始されたため、第1親衛戦車旅団はスタニスラーウからの撤退を余儀なくされた。 3月に行われた11日間の攻勢で、旅団の移動距離は約300キロメートルに及び、9つの都市を含む250あまりの集落をドイツ軍から解放する結果を残した。カルパチア山脈の麓やソ連の南西部国境地帯におけるドイツ軍との一連の戦闘で、模範的な指揮を執ったことを評価された第1親衛戦車旅団は、1944年4月18日にソビエト連邦最高会議幹部会令により赤旗勲章が授与された。 旅団は、我が国における親衛戦車部隊の先駆けである。その武勇伝には、大祖国戦争中の赤軍の歴史を読み取ることができる。28人のパンフィーロフ親衛隊員(ロシア語版)による活躍が祖国防衛の不滅神話となったように、第1親衛戦車旅団の勇姿は、我々の勝利の象徴として、人民の心に刻まれ続けるだろう。――「第1親衛戦車旅団」 / 『クラスナヤ・ズヴェズダ』1944年4月29日 4月5日から5月12日にかけて、旅団はスタニスラーウ以南の他の部隊とともに、失地奪還を試みるドイツ軍部隊からの領土防衛に徹した。ヴャコフやマリーンの戦車小隊を中心に果敢に奮戦したが、4月17日にマクシム・ムシヒン親衛少尉を、4月24日に戦車エース(ロシア語版)のエフゲニー・コスティリョーフ親衛上級中尉を相次いで失っている。
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