ウクライナ解放とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ウクライナ解放の意味・解説 

ウクライナ解放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:40 UTC 版)

第1親衛戦車旅団」の記事における「ウクライナ解放」の解説

1943年9月、第1戦車軍の一部隊としてヴォロネジ戦線加わっていた第1親衛戦車旅団は、短期間高司令部予備転属となった11月、2ヵ月ほどで最高司令部予備から第1ウクライナ戦線移され旅団は、新たに発動され攻勢作戦であるジトーミル=ベルディーチェフ攻勢ロシア語版)に主戦力として参戦した。この時までに旅団戦力補充され、G・ブトフ親衛上級中尉率い第3戦車大隊加わった12月第1親衛戦車旅団ウクライナジトーミルやヴィニツィアなどの地域解放するため、戦闘火ぶた切った12月24日の朝、第78親衛狙撃兵師団と第100狙撃兵師団ロシア語版)がドイツ防衛線を破り第1親衛戦車旅団は第8親衛機械化軍団ロシア語版)の先陣切ってカザーティンにある突破口突入した第1親衛戦車旅団先頭をいくのはゲオルギー・ベッサラボフ親衛中尉とエフゲニー・コスティリョーフ親衛大尉指揮執る2つ戦車部隊だった。12月25日の朝、コスティリョーフの部隊はコルニン(ロシア語版地域流れイルピン川を渡河し、旅団主力部隊到着するまで橋頭堡防衛努めた同日彼の部隊はツルボフカ(ロシア語版)に拠点置いていたドイツ軍部隊一掃している。旅団主力部隊この位置からノーヴァヤ・グレブリャ(ロシア語版解放し夕方にはリプキロシア語版北部に続く鉄道沿って25装甲師団ロシア語版)を撃破、キロフカやロゾヴィキなどの居住地占領した。さらにその日の夜、ドイツ軍混乱乗じて、ウラジーミル・ゴレロフ親衛中佐とニコライ・ガヴリシュコ親衛大尉率い旅団戦車11両が、キエフ地域やポペリニャ(ロシア語版)の駅周辺域なども占領している。 12月27日第1親衛戦車旅団第1戦車大隊がヴォイトヴィツィの集落を、第3大隊がソキリチャを押さえた12月28日から29日にかけ、第19装甲師団ロシア語版)と第20機械化師団後方部隊撃破した旅団は、マハルディンツィ駅を奪取してカザーティン東部進軍し鉄道駅などを占領した。なお、29日のカザーティンでの戦闘でゲオルギー・ベッサラボフ親衛上級中尉戦死したが、彼は通算12両の戦車撃破したエースであった1944年1月4日から5日にかけて、旅団はリポヴェツ(ロシア語版)の鉄道駅とテルマン名称国営農場占領した1月6日の夜、8両のT-34(N・ニジニク親衛上級中尉指揮)がヴィニツィア州のイリンツィを含むいくつかの居住地解放しソブロシア語版)川を渡河した。 1月旅団はツィヴロフ(ロシア語版)、ジュメーリンカ、ジューコフツィ(ロシア語版)を襲撃した1月9日から10日にかけて、V・M・ゴレロフは10両のT-34付属自走砲率いて敵の後方を60kmにわたって攻撃し南ブーフ川にいたドイツ軍破っている。その後ドイツ軍司令部予備兵力を置く主要道路の分岐点であるジュメーリンカより、南東5kmにあるノヴォ=ペトロフスクへ移動したジュメーリンカ市内には100両以上のドイツ戦車集っていた。ゴレロフは、上層部との連絡つかないため、旅団司令官判断としてジュメーリンカへの攻撃決定した。ここでドイツ軍足止めしたため予備兵力が東部移送されるのを1日遅延させることに成功している。旅団は3個歩兵師団相手交戦し飛行場破壊した後、包囲網から脱出した第1親衛戦車旅団1943年12月24日から1944年1月16日までの間に、戦車78両、自走砲29門、火砲93門、装甲車両29両、貨物運搬車900台以上を撃破し将軍1人を含む500人以上を捕虜としている。旅団側は29両の戦車失った。なお、工兵部隊によって69両の戦車数十台の軍用車両戦闘中修復されている。 1944年2月第1親衛戦車旅団短期間第1戦車軍の予備部隊下げられた。その後ズバラジ(ロシア語版)へ向け200km進軍しプロスクーロフ=チェルノフツィー攻勢ロシア語版)で戦線復帰した3月20日より、第1ウクライナ戦線各部隊西部ウクライナ解放に向けた作戦開始した旅団ドニエストル川展開するドイツ軍後方部隊攻撃加え、チェルトコフ(ロシア語版)を解放して本隊到達まで守り抜いた3月21日早朝第1親衛戦車旅団の第1、第2戦車大隊は、ドイツの第359歩兵師団英語版)の抵抗退けてタルノーポリ付近防衛線を突破した春の雪解けの中で、旅団はテレブナ川(ロシア語版)を強行渡河し、その日のうちにコズイェフカを占領すると、翌朝には地区中心部とトレンボウリャの鉄道駅急襲して制圧した。イヴァン・クリディン(ロシア語版上級中尉率い第1大隊は、北西からコピチンツィ(ロシア語版)に接近し、第17装甲師団ロシア語版)の車列捕捉した。V・V・ボチュコフスキー率い第2大隊は、コピチンツィ=チェルトコフ間を結ぶ幹線道路遮断した旅団は軍の前衛位置し戦闘の最も重要な局面逃すことは許されなかった。カメラは常にスタンバイしており、いつでも撮影できるようになっていた…。 チェルトコフに通じ分岐点停止した郊外では、すでに戦い始まっていた。…突然、どこからかドイツ戦車飛び出してきた。私たち見たドイツ兵はすぐに戦車切り返し反対方向へと進んでいった。 「なあ、セリョージャ、ファシストどもにソ連の『サーティーフォー』の走り見せつけてやれ!」と、ゴレロフは言った。セルゲイ・ソロヴョーフにそれ以上説明不要だ彼の戦車走り出し、ファシストたちを追った数分後、ソロヴョーフが戦車牽引して運んできた。 ――戦場特派員回想録より、V・E・シュミロフ(ロシア語版激戦の末にコピチンツィを解放した旅団は、3月23日早朝ドニエストル川およびウクライナ国周辺地域に残る敵の抵抗拠点であるチェルトコフへ向かった。ゴレロフは、防衛のため重戦車部隊先に町へ派遣し、続く部隊は敵の反撃予想される東部地域陽動作戦発動して主力部隊をもって北部方面から敵を攻撃する決定下した。 コスティリョーフ率い戦車中隊が、高速度東部地域侵入して陽動作戦発動している間、クリディンやシリク(ロシア語版)、ヴェリョーフキン、シヴァシュ、ムシヒンらの車両は山の斜面下って北部方面回り込んだ。アレクサンドル・デグチャレフ(ロシア語版)のT-34が、落橋失敗し炎上するセレト川渡って最初にチェルトコフへ侵入した混乱するチェルトコフでの戦闘によって、カバルド・カルダノフ(ロシア語版親衛中尉とアレクサンドル・デグチャレフ親衛少尉戦死している。最終的に旅団はチェルトコフの占領成功した。 この戦いにおける活躍によって、第1親衛戦車旅団には「チェルトコフスカヤ」の名誉称号与えられ、以下の3人の戦車兵ソ連邦英雄称号贈られている。 戦車大隊副司令官ウラジーミル・ボチコフスキー(ロシア語版親衛大尉 戦車大隊司令官ニコライ・ガヴリシュコ(ロシア語版親衛少佐 戦車小隊司令官カバルド・カルダノフ(ロシア語版親衛中尉追贈) カトゥコフは、旅団司令官のゴレロフについて、「第1親衛戦車旅団司令官恵まれていた。ゴレロフは若いにもかかわらず経験豊富毅然と振る舞い機知に富んだ司令官だった。私はいつもゴレロフを戦闘の重要局面送り込んでいたが、それに理由がないわけではなかった。」と振り返っている。 チェルトコフに設置されているモニュメント 同日南西方面でも急速な攻勢展開された。第7装甲師団ロシア語版)および第1SS装甲師団貨物積んだ列車制圧し、ヤゲリニツァ(ウクライナ語版)とヴァルヴァリンツィの駅を占領した旅団分遣隊は、ウスチェチコ(ロシア語版郊外ドニエストル川沿岸向かったドニエストル川架かる爆破され落橋していたため、クリディン親衛上級中尉率い部隊渡河可能な浅瀬探した。クリディンはその最中偵察のため戦車から離れたときに被弾し戦死している。 3月25日、ガヴリシュコ親衛大尉率い15両のT-34ドニエストル川渡河し、同日中にゴロデンカ(ロシア語版)の町を占領した。ゴロデンカでは、300人の捕虜加えて製糖工場および砂糖積載した運搬車500台を制圧している。 3月27日、ボチュコフスキー親衛大尉率いる7両のT-34がチェルナーツィン(ロシア語版)、ソロキ(ロシア語版)、フヴォジディエツを解放し、チェルニャヴァ川を渡河してドイツ軍拠点であるプリカルパチア(ロシア語版)のコロミヤ(ロシア語版)に接近した。しかし、敵部隊兵器潤沢なこの町をすぐ占領することはできなかったため、旅団司令官のゴレロフは第1戦車大隊から4両の戦車派遣した3月28日未明迂回したボチュコフスキーの増援部隊は、敵の激し抵抗破ってコロミヤを占領しセレト川における渡河路を確保した。このとき、ドゥホフ、カタエフ、イグナチェフ、シャルライ、ボリシャコフ、ヴェルホヴェンコなどの隊員勇敢に戦い作戦成功導いた1944年4月8日、コロミヤでの戦功評価され第1親衛戦車旅団には、ソビエト連邦最高会議幹部会令により2等ボグダン・フメリニツキー勲章授与された。また、戦車指揮官アンドレイ・イグナチェフ(ロシア語版親衛少尉戦車砲指揮官アンドレイ・ゼムリャノフ(ロシア語版親衛軍曹ソ連邦英雄に列せられた。作戦遂行したボチュコフスキー親衛大尉には、ソビエト連邦軍最高総司令官から公式命令下された。 コロミヤ解放後すぐさまスタニスラーウ(現イヴァーノ=フランキーウシク)へ移動したが、ここはかつて第1親衛戦車旅団古参兵たちが戦争始めた場所である。3月29日旅団第1戦車大隊は敵の援護部隊打ち破り地区中心部とナドヴォルナヤ駅を占領したまた、ボゴロドチャヌィ(ロシア語版郊外では、1000台にもおよぶドイツ軍車列制圧している。コロミヤから移動してきた第2戦車大隊との合流後幹線道路進み3月30日夕方までにスタニスラーウ南部到着した最大20両ものティーガー重戦車自走砲要塞化されたトーチカなどで守り固められたスタニスラーウでは、旅団部隊侵入後に激し戦闘となった。特に3月31日市街地一晩中激戦続き、ドゥホフ率い戦車小隊が、戦車3両、火砲4門、車両40台を撃破する戦果をあげた。しかしながらティーガー2両との戦いで苦戦強いられ、ドミトリー・シリク(ロシア語版親衛上級中尉、ユーリー・ヴェリョーフキン親衛中尉機械技師操縦士ロシア語版)のドミトリー・コチュベイら多く隊員失っている。明け方にはドイツ空軍航空部隊による対戦車攻撃開始されたため、第1親衛戦車旅団はスタニスラーウからの撤退余儀なくされた。 3月行われた11日間の攻勢で、旅団移動距離は約300キロメートルに及び、9つ都市を含む250あまりの集落ドイツ軍から解放する結果残したカルパチア山脈の麓やソ連南西部国境地帯におけるドイツ軍との一連の戦闘で、模範的な指揮を執ったことを評価され第1親衛戦車旅団は、1944年4月18日ソビエト連邦最高会議幹部会令により赤旗勲章授与された。 旅団は、我が国における親衛戦車部隊先駆けである。その武勇伝には、大祖国戦争中の赤軍歴史読み取ることができる。28人のパンフィーロフ親衛隊員ロシア語版)による活躍祖国防衛不滅神話となったように、第1親衛戦車旅団勇姿は、我々の勝利象徴として人民心に刻まれ続けるだろう。――「第1親衛戦車旅団」 / 『クラスナヤ・ズヴェズダ1944年4月29日 4月5日から5月12日にかけて、旅団はスタニスラーウ以南の他の部隊とともに失地奪還試みドイツ軍部隊からの領土防衛徹した。ヴャコフやマリーン戦車小隊中心に果敢に奮戦したが、4月17日にマクシム・ムシヒン親衛少尉を、4月24日戦車エースロシア語版)のエフゲニー・コスティリョーフ親衛上級中尉相次いで失っている。

※この「ウクライナ解放」の解説は、「第1親衛戦車旅団」の解説の一部です。
「ウクライナ解放」を含む「第1親衛戦車旅団」の記事については、「第1親衛戦車旅団」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ウクライナ解放」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ウクライナ解放」の関連用語

ウクライナ解放のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ウクライナ解放のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第1親衛戦車旅団 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS