「黄金期」資本主義経済と南北問題
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「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「「黄金期」資本主義経済と南北問題」の解説
詳細は「1950年代」、「1960年代」、および「南北問題」を参照 第二次世界大戦後の世界輸出が戦前水準に復帰したのは終戦3年後の1948年であり、第一次世界大戦後にはそれが1924年まで5年を要したのと比較して速かった。また、第二次世界後は1930年代のような急激な輸出の縮小を経験することなく、順調な伸びがみられた。輸出価格も朝鮮戦争後、20年近くにわたって安定した。 期間GDP1人あたりGDP固定投資輸出量1820 - 1870 2.2 1.0 n.a 4.0 1870 - 1913 2.5 1,4 2.9 3.9 1913 - 1950 1.9 1.2 1.7 1.0 1950 - 1973 4.9 3.8 5.5 8.6 1973 - 1979 2.5 2.0 4.4 4.8 1979 - 1989 2.8 2.1 3.2 5.0 上の表は、先進16か国(オーストラリア、オーストリア、ベルギー、カナダ、デンマーク、フィンランド、フランス、西ドイツ、イタリア、日本、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、スイス、イギリス、アメリカ合衆国)の年平均成長率をパーセント表示したもの であるが、ここでは、1950年から1973年にかけての期間がGDP、固定投資、輸出量の成長率のいずれの指標も、資本主義の歴史のなかで突出して高いことが読み取れる。また、1970年代半ば以降のスタグフレーションの進行した時期に比較してインフレ率や失業率が際だって低かったこととあわせ、この時期は資本主義の「黄金期」と称されることがある。 戦後アメリカの経済的繁栄をささえた技術革新は、大規模な大量生産を可能にし、西側先進国の消費生活を大きく変えるナイロンやプラスチックなどの新商品をつぎつぎとうみだし、高等教育の普及や、リチャード・ハミルトンが1956年に製作した「一体なにが今日の家庭をこれほどまでに変化させ、魅力的にしているか」(Just what is it that makes today´s homes so different, so appealing?, 1956)が始まりとされるポップアート、ロックンロールなどの若者文化、大衆文化の広がりはアメリカ社会を「ゆたかな社会」と印象づけ、西欧や日本をはじめ世界各地に浸透してゆくことになった。 また、60年代はじめには、通信衛星による宇宙中継がおこなわれ、人びとはリアルタイムで地球の裏側の事件やようすまで知ることができるようになった。 輸出シェア19501960197019801990資本主義諸国 60.8 65.9 70.9 62.6 71.5 アメリカ 16.7 15.9 13.5 11.0 11.4 フランス 5.0 5.3 5.7 5.6 6.1 ドイツ 3.3 8.9 10.8 9.7 12.2 イギリス 10.0 8.0 6.1 5.5 5.4 EEC(EC) 15.2※ 23.2※ 28.3※ 34.1 39.6 日本 1.4 3.2 6.1 6.5 8.3 発展途上国 31.1 21.9 18.4 28.7 21.6 産油国 — 6.1 5.9 17.6 7.1 中南米 12.4 7.7 5.5 5.5 3.9 アフリカ 5.2 4.2 4.1 4.7 2.3 アジア 13.1 9.5 8.1 17.8 14.9 社会主義諸国 8.1 11.7 10.7 8.7 6.9 全世界100.0100.0100.0100.0100.0輸入シェア19501960197019801990資本主義諸国 64.9 64.9 71.6 68.3 72.3 アメリカ 13.9 11.1 12.2 12.5 15.4 フランス 4.8 4.6 5.8 6.6 6.9 ドイツ 4.2 7.4 9.1 9.1 10.2 イギリス 11.1 9.3 6.6 5.6 6.7 EEC(EC) 17.6※ 21.8※ 26.8※ 37.2 39.5 日本 1.5 3.3 5.8 6.8 6.6 発展途上国 27.2 22.7 17.9 22.9 20.4 産油国 4.3 4.8 3.5 7.0 3.5 中南米 10.1 7.2 5.5 5.9 3.3 アフリカ 5.4 4.9 3.4 3.6 2.1 アジア 11.1 9.7 7.8 12.3 14.3 社会主義諸国 7.9 12.4 10.6 8.9 7.3 全世界100.0100.0100.0100.0100.0上の表は、世界各地域の輸出入シェア(※印はEEC創設6か国のみの数値)を示したもの である。戦後の輸出成長率には地域間格差がめだつ。ドイツをはじめとする西ヨーロッパと日本の伸びが大きく、世界でのシェアをのばしており、アメリカのシェアは上下があるものの高い水準を維持、それに対し、発展途上国は、一時的に産油国が輸出シェアを拡大したものの全体的にはシェアを下げている。ただし、そのなかにあって1970年代以降のアジアは急速に輸出入を伸ばしていることがわかる。 従来の世界貿易が、先進国と途上国のあいだで一次産品と工業製品の交換というかたちで展開される傾向があったのにたいし、第二次世界大戦後には先進諸国ないし工業国相互の貿易が主流となった。戦後の貿易は、自動車や衣料品に顕著にみられるように、異なったブランド(商標)の製品が先進諸国内で輸入されたり、中間製品と完成品のあいだでの取引が拡大するなど、産業部門内貿易という、従来みられない新しい傾向をふくんでいた。全体としては、欧州経済共同体(EEC)の拡大が目立ち、その域内貿易が1950年代から1960年代にかけての世界貿易の伸びをリードした。 一方、かつて植民地だったアジアやアフリカの諸国では、商品作物栽培や資源供給を強制されてきた経緯から、社会の自立的な発展が妨げられ、独立後もそのひずみから脱却していくことが困難であり、経済発展は順調にすすまず、強権政治やクーデタに悩まされて不安定な社会情勢がつづいた。バングラデシュのジュートやマレー半島の天然ゴムなど、先進工業国における技術革新によって安価な代替商品が生まれ、需要の減退に見舞われたことも痛手だった。また、ラテンアメリカでも、土地所有の偏在や外国資本の支配により、農民の貧困や政治の不安定がつづいた。1959年にはフィデル・カストロの指導によるキューバ革命がおこっているが、それ以外の国ぐにでも、1960年代には、先進国との経済格差がいっそう目立つようになった。こうした「南」の発展途上国と「北」の先進工業国との格差は大きく、やがて南北問題として意識されるようになった。 東西冷戦下の世界のなかで、アメリカなど先進諸国は、これらの地域に投資や援助を増大させて開発を進めることに関心を強めた。緑の革命は、その一例であるが、開発は先進国の基準があてはめられることも少なくなかった。政府レベルでは政府開発援助がおこなわれるようになり、また、国連専門機関として国際開発協会(IDA)が1960年に、補助機関として国際連合貿易開発会議(UNCTAD)が1964年に、さらに、アメリカの主導によって1961年経済協力開発機構(OECD)のなかに開発援助委員会(DAC)が設置されるなど、発展途上国に対する援助体制が整えられるようになった。 現代の世界の一体化へ
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