「禁煙ファシズム」批判
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1980年代以降の日本における喫煙規制強化に対しては、過剰な公権力の介入であるとして「禁煙ファシズム」などと批判している。養老孟司との対談でも中学時代の喫煙体験と、「70歳以上の人に阿片を解禁したら幸せな老人が増えるかもしれない」との考えを示し「禁煙ファシズム」を強く批判した。山崎の喫煙規制批判に関して、日本禁煙学会理事長作田学らは2007年9月13日付で山崎宛ての公開質問状を発表した。
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「禁煙ファシズム」批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:10 UTC 版)
現在の反タバコ運動は「禁煙ファシズム」であると主張し、『禁煙ファシズムと戦う』を共著で出版している。受動喫煙を問題視する風潮や喫煙規制について、排煙の害を隠蔽しようとする自動車メーカーや石油会社の陰謀だという説を唱えている。自身も1日40本の煙草を吸うヘビースモーカーであり、著書『すばらしき愚民社会』において、結婚を考えている相手が嫌煙家だったので、1999年ごろ禁煙外来に通院したが禁煙に失敗したとしている。小谷野はさらに、「禁煙外来へ行ってもやめられなかった私は、身体障害者として認定してもらいたい。そのことはいずれ厚生労働省へ正式に要請するだろう」とも発言している。 JR東日本が一部の列車を除き車内を全面禁煙したことに対して、禁煙措置の取りやめを求めて訴訟を起こしたが、棄却されている。また、訴状において、自らが閉所恐怖症であり、喫煙ができないと症状の悪化を来たすとの主張をしている。「大気の汚れた東京で、たばこの煙ぐらいを問題にすること自体がばかばかしい」「健康に害を及ぼすものはほかにもいろいろあるのに、たばこだけが狙い撃ちされている」 というのが小谷野の主張である。また、他の連載コラム等において、自らが禁煙のプラットホームで敢えて喫煙し、駅員に注意されるとクレームを付けたり、怒鳴ったりしていることを明らかにしている。 2004年10月15日には、やはり反禁煙家である筒井康隆と東京都千代田区のパレスホテルにて初対面を果たした。このとき小谷野は筒井から愛煙家団体「Go smoking友の会」への参加を求められたが、「嫌煙権論者とは喧嘩しないという主宰者の方針が気に食わない」との理由によりこの誘いを拒否。小谷野はさらに筒井から喫煙者と嫌煙権論者との公開シンポジウムにも参加するよう誘われたが、「嫌煙権論者は馬鹿ばかりであって、論争するに値いしない」との理由によってこの誘いをも拒否したと筒井に書かれた。ただし小谷野自身は、この時の対面について「私は「嫌煙派とのシンポジウム」を断ったわけではなく、やっても新聞等が報じないだろうし、たとえ嫌煙派が議論で負けても、負けたとかバカだったとかは死んでも報道せず「議論は平行線をたどった」などと書くだけだろうから、ムダだろうと思い、黙っていただけです。」と述べている。 また、「1999年に大阪大学を、耐えられなくなって辞めて以来、27件近くの大学の公募に応募してきたが、2004年に、比較文学の公募で、明らかに私より業績のない者が採用されたのを機に、応募もやめてしまった。大学は禁煙ファシズムがひときわ厳しいし、それと戦っている私を採用する大学などというものはもうないだろう」 とも述べ、自らが阪大辞任以後、どの大学でも常勤の職を持てずにいる背景にも「禁煙ファシズム」の存在があるとの見解を示している。ただし小谷野は「地方の立派な大学への就職を平川先生が斡旋してくれたことがあって、ただ飛行機に乗れない私がそんな遠方へ行くのは不可能だったから断った」とも発言している。 『週刊現代』2008年8月2日号では「何よりも私が不愉快なのは、禁煙運動家の人たちとは議論が成立しないことです」 と言いつつも、「以前、日本禁煙学会の理事長が公開討論をやりたいと言ってきたことがありますが、応じませんでした。どうせ禁煙運動家を動員して、こちらを袋叩きにするのは目に見えているからです」 と述べた。また、「私はいま『禁煙ファシズムと戦う会』を結成していますが、かくも理不尽な世の中と立ち向かうには、もはや『日本喫煙者党』(笑)を結成して国政に出るしかないでしょう。心ならずも世間の隅に追いやられた愛煙家たちの熱い支持が得られるものと確信しています」 とも発言している。 ただし「咽頭に病気を抱える者の前では喫煙を控えるべき」とブログで書き込んでいる。同時に、喫煙者である室井尚が喫煙に関する文章を出し、山形浩生が抗議したときは、山形を以下のように非難した。 なんで(中略)室井尚にからむんだ山形浩生。俺にからめよ俺に。それともあれか、俺には勝てないとか、ネットしか見ないネットバカを洗脳しようとか、そういう意図か。(中略)なんで山形のデータって米国のばっかりなんでしょ。日本のデータはないのかしら。(中略)喘息だとか喉が弱いとか言っている人がいるが、そういう人の前で煙草を吸ってもいいとは私は書いていない — 小谷野、猫を償うに猫をもってせよ 2005-09-30 俺にからめよ山形浩生 また、これらの言論活動の過程で、元喫煙者でフリーライターの藤本祥和から、2006年9月30日、ミクシィに投稿された『禁煙ファシズムと戦う』についてのレビューの中で、「論理の組み立て方の基本ができていない」などと批判されたため、同年10月1日に、小谷野も自身のミクシィアカウントで「自分ではかつて吸っていながら、やめられたというのでファシストになるというのはずいぶん身勝手な話だ」と反撃し、論争へと発展。藤本は、ミクシィ上で小谷野に公開討論を申し入れたものの、小谷野は登録名を変更した上で、藤本をコメント禁止にし、最後まで議論に応じなかった。その後、藤本はこれらの応酬を自らのウェブサイトで揶揄的に紹介している。山本一郎は、この論争事件を、『週刊SPA!』2006年12月26日号に掲載したネット上でおきたゴシップをまとめた「mixi事件ベスト10」において、「ミクシィの2ちゃんねる化」ととして第3位に取り上げている。 その後、このやり取りがきっかけで、2009年2月16日に、小谷野が藤本を名誉毀損と公然侮辱で刑事告訴することを発表し、「訴状提出は三月に入ってからだろうから、期日は四月だろう」と予告、藤本のウェブサイト記事「小谷野敦逃亡記」「小谷野敦文通メモ」、ブログ「ワイネフパーム・ブログ」の一部削除ならびに慰謝料300万円の支払いを要求した。ただし藤本は、訴状が届いたのは2009年4月になってからだったと主張している。2009年5月12日に東京地裁民事第49部第530法廷で第1回口頭弁論が行われ、6月23日に第2回口頭弁論が行われて結審。9月17日に下された判決で、小谷野側の全面敗訴となった。敗訴確定後、小谷野は藤本を提訴した動機について「私が被告を提訴したのは、匿名掲示板で「たばこ屋の看板娘だったお母様への感情が整理しきれないのでしょう」などと、亡き母を引き合いに出して私を揶揄したからだ」 と説明している。
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