金日成 概要

金日成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 15:28 UTC 版)

概要

先祖は、現在の全羅北道全州出身[3]本貫全州金氏[4]

満洲一帯において抗日パルチザン活動に部隊指揮官として参加し、第二次世界大戦後は朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国を建国した。以後死去するまで最高指導者の地位にあり、1948年から1972年までは首相1972年から死去するまで国家主席を務めた。死後の1998年に改定された憲法では「永遠の主席」とされ、主席制度は事実上廃止された。

また、同国の支配政党である朝鮮労働党の党首(1949年から1966年までは中央委員会委員長、1966年以降は中央委員会総書記)の地位に結党以来一貫して就いていた。遺体はエンバーミングを施され、平壌市内の錦繍山太陽宮殿(旧国家主席宮殿)に安置されている。

姓名と呼称

出生名は金成柱(きん せいちゅう、キム・ソンジュ、朝鮮語: 김성주)である。「ソンジュ」という漢字音に従って「聖柱」または「誠柱」と表記した資料もある。活動家となって以後は「金一星」(きん いっせい、キム・イルソン、김일성)と名乗り、さらに「金日成」(朝鮮語発音は「金一星」と同じキム・イルソン)と改名した。「日成」は、本格的に抗日パルチザン活動に参加した1932年ころから使い始めた号(称号)である[5]

同国の公式伝記では当初同志たちが彼に期待を込めて「一星」の名で呼んでいたが「では足りない、太陽とならなければならない」ということで「日成」と呼ぶようになったという。

日本では、かつては「きん・にっせい」と日本語の音読みで呼んでいたが、1980年代以降は漢字表記のまま「キム・イルソン」と朝鮮語読みされることが増えた。なお、NHKでは「キム・イルソン」と片仮名で表記することを基本としている[6]

経歴

出生

1912年4月15日平壌西方にある万景台(マンギョンデ)に金亨稷の長男として誕生する。母の康盤石キリスト教徒であり、外祖父の康敦煜はキリスト教長老会の牧師であった[注 2]。抗日派もしくはそのシンパであったためか、金亨稷は1919年3月1日の独立運動(三・一独立運動)の翌年に金日成を連れて南満洲中国東北部)に移住した。

金日成は満洲の平城の小学校で学んだ後、1926年に満洲の民族派朝鮮人独立運動団体正義府が運営する軍事学校の華成義塾に入学した。正義府の幹部には池青天がおり、華成義塾は数年前に現役日本軍将校だった青天や金擎天が教官を務めた新興武官学校の流れをくむ学校である。しかし、金日成はここを短期間で退学した。この前後に父の亨稷が没している。なお、亨稷は正義府に関係していたとされる[7]

父親が没した後、金日成は中華民国吉林省吉林市の中国人中学校である毓文中学校中国語版に通い[8]、そこで他の学生とともに本格的にマルクス・レーニン主義に触れ、教師で中国人共産主義者尚鉞英語版に強い影響を受け[9]、共産主義の青年学生運動に参加したことで中学校退学を余儀無くされた。

中国共産党入党

金日成が最初に参加した抗日武装団は、在南満洲の朝鮮人民族派・朝鮮革命軍のうち、李鐘洛率いる左派の一団だった。1930年中国共産党から派遣された朝鮮人運動家・呉成崙(全光)が、コミンテルンの一国一党の原則に基づいて李鐘洛部隊に入党を勧めたが、李鐘洛側は断ったため、金日成もこの時点では入党しなかったものと推測されている[10]。金日成の中国共産党の入党は1932年1933年とするものと、2つの記録が中国共産党側の史料に残っている[11]。親友で中国人の張蔚華中国語版とともに1932年に入党したともされている[12]。これ以降、金日成は、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加し、さらには1936年から再編された東北抗日聯軍の隊員となるに至った、とされる[注 3]

東北人民革命軍は中国革命に従事するための組織であったために朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。朝鮮人隊員はしばしば親日派反共団体である民生団員であるというレッテルを貼られて粛清された。後に、同じく親日派反共団体である協助会の発足とその工作により粛清は激化した(民生団事件[注 4]

当時の金日成について、中国共産党へは「信頼尊敬がある」という報告があった一方で「民生団員だという供述が多い」という内容の報告が複数なされていた。それにも関わらず金日成は粛清を免れて、東北抗日聯軍においては第一路軍第二軍第六師の師長となった。東北人民革命軍時代の金日成の功績としては、人民革命軍が共闘し、内部に党員を送り込んで取り込もうとしていた中国人民族派抗日武装団・救国軍の隊員から信頼を得ていたことを、中共側資料はあげている[11]

抗日パルチザン活動

1937年6月4日、金日成部隊である東北抗日聯軍(連軍)第一路軍第二軍第六師が朝鮮咸鏡南道の普天堡(ポチョンボ)の町に夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、金日成は名を知られるようになった[13][14]。国境を越えて朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、それが大きく報道されたこと[15]、日本官憲側が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれるが、賞金額は第一路軍首脳部の魏拯民、呉成崙には三千円、襲撃実績があった現場指揮官の金日成、崔賢に一万円[16]で、金日成が一人突出していたわけではない。

また、この普天堡襲撃は在満韓人祖国光復会甲山支部(後の朝鮮労働党甲山派)の手引きによって成功したもので、祖国光復会を中心になって組織したのは呉成崙だった。しかし北朝鮮の金日成伝では、「祖国光復会は金日成将軍が発意して宣言と綱領を発表し、会長を務めていた」と、呉の業績をそのまま金日成のものにしてしまっている[17]

その後、日本軍は東北抗日聯軍に対する大規模な討伐作戦を開始した。咸興(かんこう、ハムン)の第19師団第74連隊に属する恵山(けいざん、ヘサン)鎮守備隊(隊長は栗田大尉だったが、後に金仁旭少佐に替わる)を出撃させ、抗日聯軍側に50余名の死者を出し退散させた。その後、抗日聯軍は1940年3月11日に安図県大馬鹿溝森林警察隊を襲撃。死傷者各2名の損害を与え、金品2万3千円を略奪。苦力およそ140名を拉致。2日後、拉致者のうち25名(日本人1名、朝鮮族13名、満洲人9名、白系ロシア人2名)を釈放。残りの拉致人質70名あまりを伴って逃走を続けたため、満洲警察・前田隊の追うところとなった[18][19]が、逆に前田隊を待ち伏せして襲撃した。この襲撃による前田隊の損害は140名のうち日本側資料で戦死者数58名、戦傷者27名、行方不明9名。北朝鮮側資料では戦死者数120名とされている。このとき、前田隊の隊員はそのほとんどが練度の低い朝鮮人によって構成されていたため、隊の損害のほとんどを朝鮮人が占めた[20][21]

このとき金日成部隊は200余名のうち31名の戦死者を出している。

重村智計は、普天堡の戦いは北朝鮮が喧伝しているよりもっと小規模であり、東北抗日聯軍も中国抗日軍との連合軍であったことを指摘している[22]

ソ連への退却

1943年10月5日、第88旅団幹部合影。前列右から2人目が金日成、3人目が周保中。

しかし日本側の巧みな帰順工作・討伐作戦により、東北抗日聯軍は消耗を重ねて壊滅状態に陥って小部隊に分散しての隠密行動を余儀無くされるようになった。1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で生き残っていた直接の上司・魏拯民を置き去りにし、十数名ほどの僅かな部下と共にソビエト連邦沿海州へと逃れた[23]

ソ連に越境した金日成はスパイの容疑を受けてソ連国境警備隊に一時監禁される。その後東北抗日聯軍で金日成の上司だった中国人の周保中が彼の身元を保証して釈放される。1940年12月のハバロフスク会議を経て、金日成部隊は周保中を旅団長とするソ連極東戦線傘下の第88特別旅団に中国人残存部隊とともに編入され、金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で訓練・教育を受け、解放後には北朝鮮政府の中核となる[注 5]

帰国後、指導者へ

金日成(1946年
1945年10月14日の民衆大会に出席した金日成。後方にはレベジェフ少将らソ連軍幹部が並ぶ
1945年12月、ソ連軍民政司令官ロマネンコ少将と会談する金日成。
金九と(1948年頃)

1945年8月、ソ連軍北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した[24]。金日成は9月19日ウラジオストクからソ連の軍艦プガチョフに搭乗して元山港に上陸し、ソ連軍第88特別旅団の一員として帰国を果たした[25]。同年10月14日に平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」において、金日成は初めて朝鮮民衆の前にその姿を現した[26]

金日成はアメリカ統治下の南部に拠点を置き、朴憲永に率いられている朝鮮共産党からの離脱を目指していく。

1945年10月10日には平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置され、12月17日の第3回拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任。10月10日は朝鮮労働党創建記念日となっている。

1946年5月には北部朝鮮分局を北朝鮮共産党と改名し、同年8月末には朝鮮新民党と合併して北朝鮮労働党を創設し、金枓奉が党中央委員会委員長、金日成が副委員長に就任した。

ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として1946年2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した[27]。3月1日、平壌での集会上で手榴弾を投擲されるが、ソ連兵の護衛により一命を取り留めた[28]。翌年2月22日には北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の臨時政府として北朝鮮人民委員会に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた。

このように、金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていったが、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は1970年代に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入におびえなければならない要因となった。その後第一次インドシナ戦争ベトナムを支援した。

ソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。1948年に入り、アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、8月15日大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した。さらに翌1949年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(1966年10月12日より総書記)に選出された[29]

朝鮮戦争

金日成を指揮官として称える壁画

1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については、冷戦終結後に秘密が解除されたソ連の資料から、戦争はアメリカとの冷戦において勝機を得ようとしたソ連の同意を取り付けた金日成が、中国と共同で周到綿密に準備し、満洲という地域を罠として、アメリカをそこに引き入れようとする国際謀略として企図された北朝鮮による侵略であることが明らかとなった[30]

当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。また、ソウル会戦において猛攻を続けていたはずの北朝鮮軍が突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。この進軍停止の理由は、一説によると、南朝鮮の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる[31]。しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は体制を立て直した。

9月15日アメリカ軍仁川上陸作戦を開始すると、北朝鮮軍は一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後の7月4日朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は自分の家族(祖父母、子供2人(金正日金敬姫兄妹)[注 6])を疎開させた後、10月11日に平壌を脱出し、中華人民共和国の通化に事実上亡命した[32]

10月25日に中華人民共和国が中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を派兵したことによってアメリカ軍を押し戻した。しかし、中国人民志願軍および朝鮮人民軍は中朝連合司令部の指揮下に置かれた。中朝連合軍の彭徳懐司令官は朝鮮労働党延安派朴一禹を副司令官に任命し、金日成が直接指揮できる軍は限られた[33]

その後、戦局は38度線付近で膠着状態に陥り、休戦交渉が本格化した。1953年2月7日最高人民会議常任委員会政令により、「朝鮮戦争における指揮・功績」を認められ、朝鮮民主主義人民共和国元帥の称号を授与[34]。同年6月には休戦が成立し、平壌に帰還した。

粛清

オットー・グローテヴォールらと談笑する金日成(1956年

反満洲派の粛清

金日成派は満洲派とも呼ばれる東北抗日聯軍出身者たちである。彼らは他の派閥以上に徹底した団結を誇った。満洲派はかつて中国共産党のパルチザンとソ連軍に加わった成り立ちから、植民地時代から朝鮮で活動していた国内派よりも、当初は延安派ソ連派と友好的であり、金日成と満洲派は、まず国内派の粛清を開始した。朝鮮戦争休戦直後には朴憲永をリーダーとする南労派(国内派の主流と目された一派。ソウルを中心に活動していた)を「戦争挑発者」として有力者を逮捕・処刑した。延安派とソ連派は南労派の粛清を黙視していたが、その後共同して金日成の批判を試みるもその報復で自らも粛清されるに至った(8月宗派事件)。さらに満洲派は南労派や延安派の残存勢力を排除する運動を数度に渡って展開した。一連の過程でソ連派も排除され、多くのソ連派の幹部はソ連に帰国した。一方で1961年にソ連とソ朝友好協力相互援助条約、中華人民共和国とは中朝友好協力相互援助条約を結んで軍事同盟関係を築くことで中ソとの決定的対立は回避した。

1967年5月には国内北部で活動していた朴金喆甲山派なども粛清し、満洲派が主導権を握るに至った。この頃までに満洲派の中からも金策の変死事件が起こるなどしている。その結果、「朝鮮労働党初代政治委員で生き延びたのは、金日成以外では皆無」と言われるほどの粛清となった[注 7]

満洲派内部の粛清

1969年以降、満洲派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光(1977年に復帰)、石山、金光侠らが粛清された。1972年には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化されたが、それ以降も粛清が継続され、金日成の後妻の金聖愛(1993年に復帰するが翌年以降再び姿を消す)、実弟の金英柱1975年に失脚、1993年に国家副主席として復帰)、叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮(1978年に復帰)など身内にも失脚者が出た。1977年には国家副主席だった金東奎が追放され、後には政治犯収容所へと送られた。

金日成の独裁体制が確固なものとなった1972年以降は、金日成派の執権を脅かす要素が外部からは観察できない。それでもなお、忘れた頃に小規模ながらも粛清が展開されている。これらの粛清が何を目的としたものかは不明である。全体主義体制の整理であるとする立場、満洲派から金日成個人への権力集中過程だとみなす立場、金正日後継体制の準備であるとする立場など無数の見方があるが、いずれの立場にとっても決定的な論拠となる情報を入手出来ないのが実情である。

独裁体制の確立

金日成を讃えるプロパガンダ・ポスター

金日成はスターリン型の政治手法を用いて、政治的ライバルを次々と葬った。1950年代のうちに社会主義体制(ソ連型社会主義体制)を築き、1960年代末までに満洲派=金日成派独裁体制を完成させた。

1972年4月15日、金日成は還暦を迎えた。祝賀行事が盛大に催され、個人崇拝が強まると国外の懸念を生んだ。

12月27日朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が公布され、国家元首として国家主席の地位が新設されると、翌12月28日、金日成は国家主席に就任した。

新憲法では国家主席に権力が集中する政治構造となっており、金日成は朝鮮労働党総書記・国家主席・朝鮮人民軍最高司令官として党・国家・軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。

さらに1977年、金日成はマルクス・レーニン主義を創造的に発展させたとする「主体(チュチェ)思想」を国家の公式理念とした。

国家主席として

ニコラエ・チャウシェスクを迎える金日成(1971年
ドイツ民主共和国訪問の際、エーリッヒ・ホーネッカーと並ぶ金日成(1984年

国家主席に就任した頃、金日成は諸外国との関係樹立に力を入れ、1972年4月から1973年3月までに49ヶ国と国交を結んだ。朝鮮半島の統一問題については、1972年5月から6月にかけて、南北のそれぞれの代表が互いに相手国の首都を訪れ、祖国統一に関する会談を持った。同年7月4日に統一は外国勢力によらず自主的に解決すること、武力行使によらない平和的方法を取ることなどを「南北共同声明」として発表した。しかし、対話は北朝鮮側から一方的に中断してしまった。

1977年7月3日、NHKの取材団が金日成へのインタビューを行い[35][36]、7月13日に「金日成主席単独会見」として放送[37]

1980年代以降はそれまで頼みの綱だったソ連など共産圏からの援助が大きく減り、エネルギー不足が深刻になり、国内の食糧事情の悪化から大量の餓死者が出たと言われる。

1980年10月、第6回朝鮮労働党大会において金日成は「一民族・一国家・二制度・二政府」の下での連邦制という「高麗民主連邦共和国」創設を韓国側に提唱した。

1982年11月、錦繍山主席宮会議室で開かれた金日成、金正日、呉振宇金仲麟の4名による秘密会議のなかで、金日成は「東京を火の海にするのがわれわれの任務」であると語った[38]。これは、ソビエト連邦指導部のなかでもレオニード・ブレジネフが北朝鮮に攻撃兵器を渡すことに消極的であったのに対し、ユーリ・アンドロポフ第三次世界大戦勃発をも辞さない決意を北朝鮮に対し秘密電報で伝えてきたことを受けてのものであった[38]。これに鼓舞された金日成は、韓国の後方基地にあたり、スパイ罪をもたない日本を軍事的に叩き、通常兵器で軍事的優位に立つ韓国を赤化しようと試みた[38]

1985年12月、北朝鮮は核拡散防止条約(NPT)に加盟。

1987年11月29日に起きた「大韓航空機爆破事件」は犯人の一人とされる金賢姫(キム・ヒョンヒ)の自白によって北朝鮮による犯行であるとされ、世界各国から北朝鮮という国に対する厳しい批判が強まった。

1991年4月19日には毎日新聞社訪朝団へのインタビューに応じた[39][40][41][42]

1991年9月17日には韓国と共に、国際連合に同時加盟する。

1991年10月5日に生涯最後の外遊である中国訪問[43][44]鄧小平から改革開放を迫られて帰国後の会議で羅津・先鋒経済貿易地帯の設置を決定する[45]

1991年12月6日咸鏡南道の興南(フンナム)のマジョン公館で、韓国政府の許可なしに同年11月30日から中国政府が手配[46]した北京首都国際空港経由で電撃訪朝していた統一教会(統一協会、世界基督教統一神霊協会)の教祖文鮮明と会談[47][48][49][50][51]。金日成をサタンの代表として非難し、共産主義を神の敵として、その打倒に力を入れてきたことで有名な人物であるために世界を驚かせた(ただし、当時の統一教会は韓国大統領盧泰愚の北方外交に呼応して中国など共産圏で事業を手掛けており、北朝鮮との接触もその人脈から始まっている[52])。文鮮明はこの訪朝についてソ連東欧への「神主義」「頭翼思想」の布教や中国でのパンダ自動車事業を例に出して「私の勝共思想は共産主義を殺す思想ではなく、彼らを生かす思想、すなわち人類救済の思想」[53][54]とする声明文を出した。会談では離散家族再会に取り組むこと、核査察を受けること、自由陣営国家からの投資を受け入れること、軍需産業を除外した経済事業に統一グループが参与すること、南北頂上会談を行うこと、金剛山開発の実地などについて合意した。文鮮明から35億ドル(約4400億円)もの支援を約束され、経済的な窮地を救われる。

1992年1月30日に北朝鮮政府は国際原子力機関(IAEA)の核査察協定に調印したが[55]、早くも翌年3月には核拡散防止条約(NPT)を脱退し[56][57][58][59]1994年4月16日に金日成は西側メディアのインタビューで核開発を否定するも[60][61][62][63][64][65][66]、1994年6月にはIAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、核開発疑惑が強まった[67][68]。これに危機感を覚えたアメリカは同年6月、元大統領ジミー・カーターを特使として北朝鮮へ派遣する。カーターとの会談で金日成は韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案を受け入れた[69][70]

後継者問題

経過は不明ながらも、結果として長男の金正日が党最高幹部の同意を得て後継者に指名された。後継者指名は秘密裏に行われ、後継者が選定されたことも長らく明らかにされなかった。しかし、公式に明らかにされる前から、新たな「単一の指導者」が選定されたことはいくつかのルートで確認されるに至った。金日成および北朝鮮指導部はスターリン型の「単一の指導者」が金日成の死後も必要だと考えていたと見られている。北朝鮮指導部は、金裕民『後継者論』(虚偽の出版元が記載されている)において、民族には首領(すなわち「単一の指導者」)が必要であるという立場からソ連と中華人民共和国の経験を失敗例として挙げるなど、同盟国を非難してまで早期に後継者を選定し育成する必要を説いていた。

金日成の首の後ろには1958年時点からコブがあり[71]、しかも徐々に大きくなっていたため健康を心配する声も上がっていた。金日成が59歳とまだ若かった1971年時点で、金正日が後継者に指名された[72]。北朝鮮指導部は現在に至るまで一度として「子息であるから」という論法で金正日後継を正当化したことはない。「子息であるから」という表現さえ人民に示したことがない。

後継者選定については

  1. 継続革命が必要であるように首領には後継者が必要だ
  2. 後継者には最も優秀な人物が就かなければならない
  3. 後継者には最も首領に忠実な人物が就かなければならない

というプロパガンダを徐々に強めるばかりだった。金正日についても、あくまで上記3点を満たす人物として挙げるのみであり、「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」という理由で選ばれたことを強調しつづけた。

このプロパガンダのあり方は、世襲そのものを人民に対して正当化することは難しいと北朝鮮指導部が認識していたことを物語ると見る論者がいる。

金正日後継が、早期選定の必要から支配幹部の合意によって決まったことなのか、世襲を目的にして幹部の統制と粛清が行われたのかについては、意見が分かれている。しかし、現状ではこの論争を決定付ける情報を入手出来ない。

また、三代の世襲も目的にしていたかは定かではないが、金日成は金正日と成蕙琳の結婚に反対したものの、後に娘と娘婿である金敬姫・張成沢夫妻のとりなしを受けて、初孫である金正男を可愛がり[73]、1994年に訪朝した元アメリカ大統領ジミー・カーターにも「自分が一番愛する孫」と金正男を紹介している[73][74]。また、金正日と後妻の高英姫の結婚にも反対[75][76]し、その子の金正恩金正哲が、平壌から離れた元山で生活させられ、金敬姫・張成沢夫妻によって面会[77]も認められなかったのとは対照的に、誕生日を金日成によって直接祝われた金正男は、謂わば金日成・金正日と同じ長子であるがゆえに、金正日の後継者となりうる「皇太子」の地位が確定したと、当時の側近達は看做していた[78]

死去

金日成と金正日の遺体が安置されている錦繍山太陽宮殿

金日成は1994年7月8日午前2時に平安北道香山郡香山官邸北緯39度58分19秒 東経126度19分17秒 / 北緯39.97194度 東経126.32139度 / 39.97194; 126.32139[1]で死去した。死亡時には首の後ろにあったコブが野球ボール大にまで大きくなっていた[79]


。北朝鮮政府の公式発表では香山官邸ではなく、平壌錦繍山議事堂で死去したことになっている。

死去の数日前から金日成への独占インタビューの為、日本人ジャーナリストの中丸薫が北朝鮮へ入国している[80][81][82][83]。どこから調べたのか、入国してからは宿泊していた高麗ホテルの電話が各国のメディア取材から鳴り止まなかったという。労働党幹部との調整で金日成の独占インタビューを7月11日に許可されていた。ところが7月7日になってインタビューの延期を示唆し始めたという。レストランでの支払い時に女性店員が泣きながら対応した為に異変に気づいたという[84]

北朝鮮政府は翌日の7月9日正午に朝鮮中央放送の「特別放送」で公式発表を行い、死因は執務中の過労による心筋梗塞と報じた[85][86][87][88][89][90][91][92][93][94][95][96][97][98]。金日成は長く心臓病を患っており、さらに82歳と高齢であったことからも一般に病死は事実と見られている。

2000年の南北首脳会談で、息子の金正日は、晩年の金日成が、ソ連のクレムリン病院のペースメーカーを付けていたと述べた。ペースメーカーを付ければ、血液の凝集現象が現れ、急死の原因となる。そのため、西側諸国や中国ではアスピリンを服用することが多いが、ソ連からはそのような説明は受けず、「魚を食べるのがいい」といった従来の常識に従っていたのが間違いだったと述べた[99]

1994年には、息子の金正日が病気治療中であったため死亡までの間、様々な課題の解決に向けて金日成は自ら精力的な陣頭指揮に当たることになる。内政では低迷が続く経済を復活させるための農業指導と先鋒開発。外交面では一触即発ともいわれたアメリカとの関係を改善するために、大統領ビル・クリントンの密命を帯びた元大統領ジミー・カーターの招朝実現と直接交渉による局面打開が課題であった。一点を掴めば問題の核心とその解法が掴めるという彼特有の「円環の理論」に基づく賭けでもあったが、交渉の結果「米朝枠組み合意」を結ぶことで決着。さらには当時の韓国大統領金泳三との間で開催されることが決まっていた初の南北首脳会談の話題が持ち上がっており、彼の突然の死は世界に衝撃を与えた。

死去2日前の7月6日にも経済活動家協議会を召集。農業第一主義・貿易第一主義・軽工業第一主義を改めて提起。セメント生産が成否を握ると叱咤した上で[100][101]、党官僚の形式主義を声を荒らげて非難しながら、やめていたはずの煙草喫煙した後に寝室に入ったとの情報がある[102]

このため一部の北朝鮮ウォッチャーからは、金正日との対立や暗殺を疑う声が上がった。しかし米朝間の緊張が最高度に達した直後に米朝枠組み合意に決定的な役割を果した金日成を失うことは北朝鮮の政治体制にとっても金正日にとっても不利益でしかないため、暗殺説には根拠がほとんどない。また韓国の中央日報が「南北首脳会談に関し金正日と口論になり、その場で心臓発作を起こした」と報じたことに関し北朝鮮は激しく抗議した。なお、同日に金正日が金日成に会っていないことは主席府(錦繍山議事堂)責任書記・全河哲が残していた記録の上からも明らかである。

葬儀国葬として金正日主導のもと7月11日に首都平壌で執り行われた。当日は北朝鮮全土から大勢の国民が集まり、朝鮮中央テレビでは人々が万寿台に集まり一斉に地面を叩きながら泣き崩れている様子が報じられた[103][104]。その後遺体はエンバーミングが施され、錦繍山議事堂(主席宮殿)を改築した錦繍山太陽宮殿に安置された。

北朝鮮政府は国家として「三年の喪に服す」と宣言した[105]

1998年9月5日に行われた憲法改正によって「永久国家主席英語版」(en:Eternal leaders of North Korea)に任じられる[注 8]








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