賀陽宮恒憲王 賀陽宮恒憲王の概要

賀陽宮恒憲王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/07 09:44 UTC 版)

賀陽 恒憲
(賀陽宮恒憲王)
続柄 賀陽宮邦憲王第1王男子

全名 恒憲つねのり
身位 →(皇籍離脱
敬称 殿下 →(皇籍離脱)
出生 1900年明治33年)1月27日
大日本帝国京都府
死去 (1978-01-03) 1978年1月3日(77歳没)
日本千葉県
埋葬 豊島岡墓地
配偶者 九条敏子九条道実の5女)
子女 邦寿王
美智子女王
治憲王
章憲王
文憲王
宗憲王
健憲王
父親 賀陽宮邦憲王久邇宮朝彦親王の第2王子
母親 邦憲王妃好子
役職 陸軍中将
軍事参議官
由良要塞司令官
第43師団
近衛混成旅団長
騎兵第2旅団
騎兵第16連隊長
騎兵第10連隊長
日清生命社友会会長
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士官候補生時代の恒憲王
称号:

概要

王は軍人として陸軍中将に昇り東京・名古屋の各部隊の師団長や、陸軍大学校長などを歴任し早くから大戦終結の聖断を昭和天皇に求めた。また、終戦が決まると皇族臣籍降下も主張した。1947年(昭和22年)10月14日臣籍降下し、その3日後には区役所にて住民手続きし賀陽 恒憲かや つねのりとなる。臣籍降下直後に公職追放となる[1]1952年(昭和27年)解除[2])。「平民的な宮様」として国民に慕われ、生活ぶりは質素であった。他方「野球の宮様」とも称され、1934年(昭和9年)にはアメリカニューヨークヤンキー・スタジアムで試合を観戦した。終戦後、御歌所長を務めた後、日清生命社友会会長などの公職を歴任した。 王の邸宅はかつて閑院宮載仁親王久邇宮邦彦王が居住していたが、後に千鳥ヶ淵戦没者墓苑となった。

官歴


  1. ^ 朝日新聞1947年(昭和22年)10月17日二面。
  2. ^ 『朝日新聞』1952年(昭和27年)4月9日一面。
  3. ^ 『官報』第4838号「叙任及辞令」1943年(昭和18年)3月2日。
  4. ^ 神戸乗馬倶楽部の歴史”. 神戸乗馬倶楽部. 2013年5月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月6日閲覧。
  5. ^ 『官報』第2243号、1920年(大正9年)1月28日。
  6. ^ 『官報』第5658号、昭和20年11月17日、p.3、「叙任及辞令」。
  7. ^ 『官報』第5737号、昭和21年3月1日、p.4、「叙任及辞令」。
  8. ^ 『官報』第5822号、1946年(昭和21年)6月13日。
  9. ^ 『官報』第2524号「叙任及辞令」1920年12月29日。
  10. ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1931年(昭和6年)12月28日、742頁。
  11. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年(昭和16年)10月23日。


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