ギロチン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 06:18 UTC 版)
死刑執行の歴史
フランス
ギロチンが登場するまで、フランスには160人の死刑執行人と、3,400人の助手が存在していた。これが、ギロチンの導入後は減少の一途を辿り、1870年11月には、1人の執行人と5人の助手が、フランス全土の処刑を一手に担うようになった。
フランスでは総裁政府期から平時の死刑制度を廃止していたが、復古王政で再開された。
古くから、処刑は公開して民衆への警告とすべきとする刑法思想があり、かつては公開処刑がひろく行われた。第二次世界大戦直前の1939年まで、フランスでもギロチンによる公開処刑が行なわれていた。しかし人権意識の高まりから、その後は積極的に目立った場所を避けて刑務所の門前で早朝に実施するようになり、広場などで白昼堂々と行う事はなくなっていた。
1939年6月17日にジュール=アンリ・デフルノーによってパーセイルズで行われたドイツ出身の殺人犯オイゲン・ヴァイトマンの死刑執行が最後の公開処刑となった。この処刑は盗撮され、映画館で公開された。これに問題を感じた法務省は、以降の死刑執行を非公開に切り替える事になる。そのため、これがフランスにおいて唯一映像に記録されたギロチンによる処刑映像となった。ヴィシー政権下では、レジスタンスのビラを配っただけで、ギロチン処刑された者がいた。また、堕胎罪で逮捕され、死刑判決を受けて1943年に処刑されたマリー=ルイーズ・ジローもいた。
ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯、および絞首刑との比較から、欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビというチュニジア人労働者であり、1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。
アルジェリアやベトナムなどフランスの植民地でも使用されていた。
ドイツ
ドイツ帝国(1871年 - 1918年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ヴァイマル共和政(1919年 - 1933年)に至るまで手斧による死刑と併用されていた。ナチス・ドイツ成立後の1937年にヒトラー直々の命令でギロチンによる処刑に統一され、ギロチンによる処刑への統一以前の1933年からナチス崩壊の1945年にかけては16,500人がギロチンによって処刑され史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動のゾフィー・ショルやハンス・ショルら、政治犯も多人数含まれている。
ナチス政権下においては、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。
ナチス崩壊以後西ドイツ成立までもギロチンによる処刑は継続され、1949年に死刑制度が廃止されて同年処刑された強姦殺人犯が最後の執行となった。
東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1970年代には廃止されたとみられる。 なお、同国は1987年に死刑を廃止した。
ベルギー
フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。
2023年現在、ヘントのフランドル伯居城でギロチンが展示されている[1]。
スウェーデン
1900年以降になってギロチンを導入した。それ以前は斧による斬首刑が行なわれていた。導入後は1910年11月23日にヨハン・アルフレッド・アンデに執行された。しかし、その後1917年に死刑判決が出た死刑囚は執行前に死亡し、1921年には死刑制度そのものが廃止されたためスウェーデンではこの1度だけしか使われなかった。
ベトナム
ベトナムでも、フランスの植民地とされた時代から1975年まで、ベトナム共和国(南ベトナム)で、ギロチンが使用されていた。
1908年のハノイ投毒事件で13人がギロチンで処刑、さらし首にされた。
日本
日本では、刑法制定後は、原則として絞首刑に限定されたが、1930年代から1945年(昭和20年)まで、ナチス・ドイツの影響を受けてギロチンに基づく斬首刑の導入が検討された。
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