長谷健とは? わかりやすく解説

はせ‐けん【長谷健】

読み方:はせけん

1904〜1957]小説家児童文学者。福岡生まれ本名藤田正俊。旧姓、堤。「あさくさの子供」で芥川賞受賞。他に児童文学春の童謡」や、北原白秋モデルにした「からたちの花」などがある。


長谷健

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/14 01:01 UTC 版)

1947年

長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年12月21日)は、日本の小説家児童文学者

来歴

福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。ちなみに、東宮永小学校は琴奨菊関の母校でもある。旧姓は堤、本名は藤田正俊。1925年(大正14年)福岡師範学校卒業。柳川の城内小学校教師をしたのち1929年(昭和4年)に上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする。1932年(昭和7年)浅草区浅草小学校に転勤。1934年(昭和9年)に同人誌『教育文学』を創刊し、1936年(昭和11年)には『白墨』を創刊する。小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う。 1939年(昭和14年)、浅草での教師体験をもとにした「あさくさの子供」を『虚実』に発表し、第九回芥川賞を受賞する。

1944年(昭和19年)に柳川へ疎開し、国民学校に勤務する。同人誌『九州文学』の同人として5年間を郷里で過ごした後、再び上京し火野葦平の旧宅に同居し、日本ペンクラブ日本文芸家協会の要職につく。児童文学の著述とともに、北原白秋を描いた『からたちの花』(1955)、『邪宗門』(1957)などを発表した[1]

1957年(昭和32年)12月19日、東京都新宿区西大久保にて、忘年会の帰りに寄った屋台を出て道路を渡ろうとしたところ、タクシーにはねられる交通事故に遭い、搬送先の国立東京第一病院で2日後の12月21日に死去。53歳。葬儀委員長は火野葦平が務めた。

著書

  • 『生活の皺』(文園社) 1934
  • 『火のくにの子供』(モナス) 1940
  • 『あさくさの子供』(改造社) 1940
  • 『明かるい朝 少年少女小説集』(四海書房) 1941
  • 『開拓村の子供 長篇少年小説』(四海書房) 1941
  • 『私の舗道』(厚生閣) 1942
  • 『友情記』(帝国教育会出版部、少国民文芸選) 1943
  • 『新星座』(今日の問題社) 1943
  • 『神まうで 2・3年の童話』(三光社) 1943
  • 『アサノミチ』(四海書房) 1943
  • 『国民学校』(講談社) 1944
  • 『愛情』(文化建設社) 1946
  • 『少年部落』(大日本雄弁会講談社) 1947
  • 『氷の部屋』(中央公論社) 1948
  • 『九州路抄』(日本交通公社) 1948
  • 柳川市立東宮永小学校校歌 1949 - 文語調の校歌
  • 『春の童謡』(二葉書店) 1950
  • ナポレオン』(あかね書房、小学生伝記文庫) 1955
  • 『からたちの花』(新潮社) 1955
  • 『静かなる怒濤』(三笠書房) 1956
  • 『当世怪談集』(河出書房) 1956
  • 『邪宗門』(新潮社) 1957
  • 『虹の立たない国』(理論社、創作少年文学シリーズ) 1961

脚注

  1. ^ 志村有弘『福岡県文学事典』2010年、勉誠出版P81

参考文献

関連項目

外部リンク




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