IBMのトップとしてとは? わかりやすく解説

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IBMのトップとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 15:26 UTC 版)

トーマス・J・ワトソン」の記事における「IBMのトップとして」の解説

1914年5月1日、コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング・コーポレーション (Computing Tabulating-Recording Corporation、略称:C-T-R) の事業部長就任C-T-R社はハーマン・ホレリスのタビュレーティング・マシーンズ社などが母体となった企業で、当時1300人の従業員がいて、年間900ドル売り上げだった。翌年には社長に選ばれている。1924年社名International Business Machines (IBM) に改称ワトソンはこの会社強力に育て上げ1952年には連邦政府から独占禁止法違反訴えられるまでになった当時IBM全米タビュレーティングマシン90%を所有して顧客リースしていた。1956年死去したとき、IBM売り上げ年間8億9700ドル従業員数72,500人にまで成長していた。 ワトソンは、自身職務最重要部分販売部門動機付け心得ていた。セールスマン養成学校IBMスクール設立しNCR販売手法ノルマ制歩合制など)など彼の販売理論教え込んだ。社では彼への個人崇拝広まり全社彼の写真や「THINK」のモットー掲げられた。社歌ではワトソンへの賛美歌われた。 1929年世界恐慌に際しても、ワトソン導入した賃貸制(機械顧客販売するではなくリースして賃料を得る)により、IBM新たな販売滞っても既にリースしている多く顧客から安定した収入得られるため、不況にも影響を受けにくい体質ができていた。また、IBM安定経営支えるものとしてパンチカード自体販売がある。顧客機械紙詰まり起こさないようにするためにIBM製のカード購入しなければならない。これは、カメラ販売するフイルム会社電気かみそり替え刃販売する会社などと同じ発想である。ワトソン新規販売激減して強気工場フル稼働させ、大量在庫抱えた。しかし、フランクリン・ルーズベルト大統領となりニューディール政策実施されるにあたって全国労働者雇用記録整理する必要が生じ、そこにIBM在庫大量に導入されのである生涯にわたってワトソン外交面でも事業面でも国際関係に深い興味持っていた。フランクリン・ルーズベルトニューヨークにおける非公式な大使として知られ海外からの政治家をしばしば接待した。1937年国際商業会議所 (ICC) の代表に選ばれ同年ベルリン開催され隔年会合で "World Peace Through World Trade"(国際貿易通じた世界平和)と題した基調講演行った。このフレーズICCIBMスローガンとなったIBMヨーロッパ子会社デホマク(英語版)(のちのIBMドイツ)は、ナチス・ドイツ国勢調査のためのパンチカード機器提供した。この機器ドイツにとって不可欠だったため、デホマクはドイツによる外国企業接収政策例外とされた。デホマクの製品ユダヤ人識別にも使われた。上述国際商工会議所開催した1937年会議ベルリン訪問した際、6月28日ドイツ首相アドルフ・ヒトラー会見果たしたワトソンヒトラーに平和を訴え不戦約束取り付けた。この訪独で、ヒトラーから Eagle with Star メダル授与されている。外国人許される勲章としては2番目に高位のものである。これらの動きにより、アメリカ企業の対独進出いくらか回復したまた、ソビエト連邦ともビジネスで関係を持った(後に長男レンドリース関わりカーター政権で駐ソ大使となっている)。 しかし、ヒトラーワトソンへの約束無視し第二次世界大戦勃発したワトソンメダル返還し開戦非難したヒトラーはこれに怒りワトソン入国禁止し、デホマクの重役ナチ関係者挿げ替えた。ただしその交換条件としてデホマク所有権認められ引き続き配当支払われた。また、デホマクへのパンチカード供給占領下ヨーロッパにあったIBM支社経由して継続しており、永世中立国であるスイスIBM支社長経由してデホマクについての法的権限維持しようとした形跡が後に見つかった文書で明らかとなっているが、それにワトソン直接関与してたかどうかは不明である。 同じころ、IBM米国戦争準備戦争深く関与した。社を挙げた戦争支援が行われ、軍用多数データ処理装置生産しアナログコンピュータ実験行った。またワトソンは "1% doctrine" という方針打ち出し米軍向けの物資供給では1%上の収益上げないことを明言した。軍に入隊した社員へは給与4分の1支払われ、軍向けの収益全額戦死した社員遺族への基金とされた。 ワトソン戦争の進展個人的に強い関心持っていた。長男トーマス・J・ワトソン・ジュニアアメリカ陸軍航空隊入隊し爆撃機パイロットになっていた。しかし間もなくフォレット・ブラッドレー少将見込まれ副官専属パイロットとなったブラッドレーソ連へのレンドリース法関連物資の輸送責任者だった。また、末っ子アーサー・K・ワトソン戦争中陸軍入っている。 ワトソンは、出身地にも近くIBM拠点にも近いビンガムトン大学創設する計画関与した1946年にはIBM土地資金提供してシラキュース大学分校として Triple Cities College創設された。この大学は後にハーパー・カレッジと呼ばれるようになり、最終的にニューヨーク州立大学ビンガムトン校となった同大学の応用科学科はワトソンの名を冠している。 終戦ころからワトソンは、些細なこと激怒するなど情緒不安定になり、周囲との軋轢増した空軍からIBM戻った長男トーマス・J・ワトソン・ジュニアIBM関係者にはトム呼ばれることがある)との対立激しくなった。 ワトソン1949年9月IBM名誉会長就任した同年トム副社長就任している。朝鮮戦争きっかけトムは軍向けのコンピュータ事業大規模な投資をしようとしたが、ワトソンリスク恐れ消極的だった1952年には司法省独占禁止法違反IBM訴えたIBM当時米国内タビュレーティングマシン90パーセントシェア持っていた。トムワトソン反対無視し独断同意サインした。しかしワトソン秘書通じトムに「100%お前を信頼し評価する」と伝えた1956年5月8日ワトソンIBM経営権トム引き継いだ翌月82歳で死去死期悟ったのだろうとトム語っている。

※この「IBMのトップとして」の解説は、「トーマス・J・ワトソン」の解説の一部です。
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