IBMのトップとして
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「トーマス・J・ワトソン」の記事における「IBMのトップとして」の解説
1914年5月1日、コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング・コーポレーション (Computing Tabulating-Recording Corporation、略称:C-T-R) の事業部長に就任。C-T-R社はハーマン・ホレリスのタビュレーティング・マシーンズ社などが母体となった企業で、当時1300人の従業員がいて、年間900万ドルの売り上げだった。翌年には社長に選ばれている。1924年、社名を International Business Machines (IBM) に改称。ワトソンはこの会社を強力に育て上げ、1952年には連邦政府から独占禁止法違反で訴えられるまでになった。当時、IBMは全米のタビュレーティングマシンの90%を所有して顧客にリースしていた。1956年に死去したとき、IBMの売り上げは年間8億9700万ドル、従業員数は72,500人にまで成長していた。 ワトソンは、自身の職務の最重要部分は販売部門の動機付けと心得ていた。セールスマン養成学校のIBMスクールを設立し、NCRの販売手法(ノルマ制、歩合制など)など彼の販売理論を教え込んだ。社では彼への個人崇拝が広まり、全社に彼の写真や「THINK」のモットーが掲げられた。社歌ではワトソンへの賛美が歌われた。 1929年の世界恐慌に際しても、ワトソンが導入した賃貸制(機械を顧客に販売するのではなくリースして賃料を得る)により、IBMは新たな販売が滞っても既にリースしている多くの顧客から安定した収入が得られるため、不況にも影響を受けにくい体質ができていた。また、IBMの安定経営を支えるものとしてパンチカード自体の販売がある。顧客は機械が紙詰まりを起こさないようにするためにIBM製のカードを購入しなければならない。これは、カメラも販売するフイルム会社や電気かみそりと替え刃を販売する会社などと同じ発想である。ワトソンは新規販売が激減しても強気で工場をフル稼働させ、大量の在庫を抱えた。しかし、フランクリン・ルーズベルトが大統領となりニューディール政策が実施されるにあたって、全国の労働者の雇用記録を整理する必要が生じ、そこにIBMの在庫が大量に導入されたのである。 生涯にわたって、ワトソンは外交面でも事業面でも国際関係に深い興味を持っていた。フランクリン・ルーズベルトのニューヨークにおける非公式な大使として知られ、海外からの政治家をしばしば接待した。1937年、国際商業会議所 (ICC) の代表に選ばれ、同年ベルリンで開催された隔年会合で "World Peace Through World Trade"(国際貿易を通じた世界平和)と題した基調講演を行った。このフレーズはICCとIBMのスローガンとなった。 IBMのヨーロッパ子会社デホマク(英語版)(のちのIBMドイツ)は、ナチス・ドイツの国勢調査のためのパンチカード機器を提供した。この機器はドイツにとって不可欠だったため、デホマクはドイツによる外国企業接収政策の例外とされた。デホマクの製品はユダヤ人の識別にも使われた。上述の国際商工会議所が開催した1937年の会議でベルリンを訪問した際、6月28日にドイツ首相アドルフ・ヒトラーと会見を果たした。ワトソンはヒトラーに平和を訴え、不戦の約束を取り付けた。この訪独で、ヒトラーから Eagle with Star メダルを授与されている。外国人に許される勲章としては2番目に高位のものである。これらの動きにより、アメリカ企業の対独進出はいくらか回復した。また、ソビエト連邦ともビジネスで関係を持った(後に長男はレンドリースに関わり、カーター政権で駐ソ大使となっている)。 しかし、ヒトラーはワトソンへの約束を無視し、第二次世界大戦が勃発した。ワトソンはメダルを返還し、開戦を非難した。ヒトラーはこれに怒り、ワトソンの入国を禁止し、デホマクの重役をナチと関係者に挿げ替えた。ただしその交換条件としてデホマク株の所有権は認められ、引き続き配当が支払われた。また、デホマクへのパンチカードの供給は占領下のヨーロッパにあったIBMの支社を経由して継続しており、永世中立国であるスイスのIBM支社長を経由してデホマクについての法的権限を維持しようとした形跡が後に見つかった文書で明らかとなっているが、それにワトソンが直接関与していたかどうかは不明である。 同じころ、IBMは米国の戦争準備と戦争に深く関与した。社を挙げた戦争支援が行われ、軍用に多数のデータ処理装置を生産し、アナログコンピュータの実験も行った。またワトソンは "1% doctrine" という方針を打ち出し、米軍向けの物資供給では1%以上の収益を上げないことを明言した。軍に入隊した社員へは給与の4分の1が支払われ、軍向けの収益は全額が戦死した社員の遺族への基金とされた。 ワトソンは戦争の進展に個人的に強い関心を持っていた。長男のトーマス・J・ワトソン・ジュニアはアメリカ陸軍航空隊に入隊し、爆撃機のパイロットになっていた。しかし間もなくフォレット・ブラッドレー少将に見込まれ副官兼専属パイロットとなった。ブラッドレーはソ連へのレンドリース法関連物資の輸送責任者だった。また、末っ子のアーサー・K・ワトソンも戦争中に陸軍に入っている。 ワトソンは、出身地にも近くIBMの拠点にも近いビンガムトンに大学を創設する計画に関与した。1946年にはIBMが土地と資金を提供してシラキュース大学の分校として Triple Cities College が創設された。この大学は後にハーパー・カレッジと呼ばれるようになり、最終的にニューヨーク州立大学ビンガムトン校となった。同大学の応用科学科はワトソンの名を冠している。 終戦のころから、ワトソンは、些細なことで激怒するなど情緒が不安定になり、周囲との軋轢が増した。空軍からIBMに戻った長男のトーマス・J・ワトソン・ジュニア(IBM関係者にはトムと呼ばれることがある)との対立も激しくなった。 ワトソンは1949年9月にIBMの名誉会長に就任した。同年、トムは副社長に就任している。朝鮮戦争をきっかけにトムは軍向けのコンピュータ事業へ大規模な投資をしようとしたが、ワトソンはリスクを恐れ消極的だった。1952年には司法省が独占禁止法違反でIBMを訴えた。IBMは当時、米国内のタビュレーティングマシンの90パーセントのシェアを持っていた。トムはワトソンの反対を無視し、独断で同意にサインした。しかしワトソンは秘書を通じトムに「100%お前を信頼し評価する」と伝えた。 1956年5月8日、ワトソンはIBMの経営権をトムに引き継いだ。翌月、82歳で死去。死期を悟ったのだろうとトムは語っている。
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