Altair BASIC
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Altair BASIC(アルテア・ベーシック)は、1975年にビル・ゲイツ、ポール・アレン、モンティ・ダビドフの3人が、設立したばかりの法人マイクロソフト(当時はMicro-Softと表記)名義で開発した、MITS社のAltair 8800やそれ以降のS-100バスコンピュータ上で動作するプログラミング言語BASICのインタプリタである。MITS社とマイクロソフト社の間にかわされた契約に基づいて配布された。当Altair BASICはマイクロソフト社の最初の製品であり、後のMicrosoft BASIC製品群の起源となったものである。
- ^ Raiders of the Lost Altair BASIC Source Code, Andrew Orlowski, 13 May 2001, The Register
- ^ Altair 8800 BASIC Reference_Manual 1975, Page 3 of PDF, ...and the joint authors of the ALTAIR BASIC interpreter, Bill Gates, Paul Allen and Monte Davidoff, will be glad to assist you.
- ^ Microsoft Fast Facts: 1975, Posted May 9, 2000, Bill Gates and Paul Allen complete BASIC and license it to their first customer, MITS of Albuquerque, N.M., the manufacturer of the Altair 8800 personal computer. This is the first computer language program written for a personal computer., Gates and Allen’s BASIC officially ships as version 2.0 in both 4K and 8K editions.
- ^ microsoft's timeline from 1975 - 1990 Archived 2008-05-14 at the Wayback Machine., July 1, Bill Gates' and Paul Allen's BASIC officially ships as version 2.0 in both 4K and 8K editions.
- ^ Computer_Notes 1975 01 05, Page 14, ALTAIR BASIC, CLAIM: Not just anybody's BASIC, FACT: Not just anybody's BASIC, BY: KEITH BRITTON ,ROBERT MULLEN, Altair BASIC version 2.0 had a serious problem in that a jump out of a FOR.... NEXT loop left garbage on the stack. . Do this too often and the stack would grow relentlessly down from high memory until it ate the program. This has been fixed in version 3.0, according to Paul Allen
- ^ Computer_Notes 1975 01 05, Page 15, Advert: Altair BASIC]
- ^ Freiberger, Paul; Swaine, Michael (2000). Fire in the Valley: The Making of the Personal Computer. New York, NY: McGraw-Hill. p. 53. ISBN 0-07-135892-7 "While walking through Harvard Square one day, Allen spotted the Popular Electronics cover that features the Altair. ... Allen ran to tell Bill that he thought their big break had finally come. Bill agreed."
- ^ Wallace, James; Jim Erickson (1992). Hard Drive: Bill Gates and the Making of the Microsoft Empire. John Wiley & Sons. pp. 81–83. ISBN 0-471-56886-4
- ^ “We have a BASIC”. New Mexico Museum of Natural History and Science. 2012年3月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年4月18日閲覧。
- ^ Wallace, James; Jim Erickson (1992). Hard Drive: Bill Gates and the Making of the Microsoft Empire. John Wiley & Sons. p. 78. ISBN 0-471-56886-4
- ^ “4 Altair Language Systems”. Altair BASIC. 2020年5月12日閲覧。
- ^ Altair BASIC. MITS. (25 August 1975)
- ^ Altair Basic for the 6800, In January 1978 I purchased Altair 680 Basic from Computer Kits in Berkeley CA. I paid full price, $200, I didn't want Bill Gates to go broke. If you bought an Altair 680B kit with 16 K of RAM for $685 you would get BASIC for free., Michael Holley's SWTPC Collection Home Page
- ^ Allen, Paul (2011). Idea Man: A Memoir by the Cofounder of Microsoft. New York: Penguin Group. p. 107. ISBN 978-1-59184-537-9. "MITS/Pertec 'materially breached its best efforts obligation...'"
- 1 Altair BASICとは
- 2 Altair BASICの概要
- 3 関連項目
Altair BASIC
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「Micro Instrumentation and Telemetry Systems」の記事における「Altair BASIC」の解説
詳細は「Altair BASIC」を参照 1974年12月、ビル・ゲイツはハーバード大学の学生で、ポール・アレンはボストンのハネウェル社に勤務していた。彼らは『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号に掲載されたAltair 8800を見て、これがBASICインタプリタを動作させるのに十分なパワーを持っていることに気づいた。彼らはAltairにBASICを提供する最初の企業になりたいと考えていた。彼らが以前にトラフォデータ(英語版)の名前で作成していたIntel 8008ベースのソフトウェア開発ツールにより、彼らが先陣を切ることが可能となった。これは、彼らの友人のポール・ギルバートがコンピュータを構築している間に、アレンがタイムシェアリングコンピュータPDP-10上で8008をシミュレートするプログラムを書いたもので、ハードが完成する前にソフトウェアを書いてデバッグすることができた。 ハーバード大学には学生が自由に使用できるPDP-10があった。彼らはそれを使ってAltair用のBASICを開発した。アレンが8008用のソフトウェア開発ツールを8080用に修正している間、ゲイツは黄色のリーガルパッドに8080のアセンブリ言語を手書きで書き始めた。また、ゲイツの同級生のモンティ・ダビドフに浮動小数点演算ルーチンを書くように依頼した。 2月上旬までには、プログラムのコーディングが手書きからPDP-10上で行われるようになり、1975年3月までに試作版が完成した。それ以前にゲイツとアレンはMITS社のロバーツに接触し、3月にアレンは試作版を持ってアルバカーキへ飛んだ。アレンがMITS社に到着してから、ソフトウェアが動くようになるまでに1日かかった。ロバーツは、遅延がソフトウェアの問題によるものであったとしているが、アレンは、これはコンピュータのメモリの問題のためだったとしている。 『コンピュータ・ノーツ』1975年4月号には、「Altair BASIC - Up and Running」という記事が掲載されていた。このソフトウェアは1975年6月23日に出荷が開始される予定だった。ソフトウェアの価格は500ドルだったが、8キロバイトのメモリとシリアルI/Oカードを搭載したAltairを合わせて購入すると75ドルに値引きされた。 1975年7月22日、MITS社はゲイツ、アレンとAltair BASICの契約を結んだ。彼らは署名時に3000ドルを受け取り、BASICのコピーが1部売れるごとに4K版は30ドル、8K版は35ドル、拡張版は60ドルのロイヤルティーが支払われた。契約の上限は18万ドルだった。MITS社は、このプログラムの10年間の世界的な独占ライセンスを受けた。彼らはまた、他の企業にプログラムをサブライセンスする独占的な権利を持ち、ライセンスを促進しプログラムを商業化するために「最善の努力」をすることに合意した。MITS社は、アルバカーキ学区が所有するPDP-10の使用時間を、BASICの開発のために提供した。アレンはハネウェル社での仕事を辞め、年間3万ドルの給料でMITS社の副社長兼ソフトウェア・ディレクターに就任した。ゲイツはまだハーバード大学の学生で、MITS社の請負作業者に過ぎなかった。1975年10月の社内報には、彼の肩書きは「ソフトウェアスペシャリスト」と記載されている。 MITS社からメモリとI/Oボードを追加購入した顧客へは、Altair BASICは75ドルで販売された。MITS社のメモリボードが信頼性の高いものであれば、顧客はそれに応じていたかもしれない。しかし、顧客はMITS社からはコンピュータのみ購入し、メモリはプロセッサ・テクノロジー社などのサードパーティから購入した。彼らは、BASICのために500ドルを支払うことはせず、海賊版を使用していた。Altair BASICのユーザのうち、正規品を購入していたのは約10%だけだった。ゲイツは、これによりロイヤルティーが入らなくなることから、これはホビイストによる窃盗であると感じていた。1976年2月、ゲイツは「マイクロソフトのジェネラル・パートナー」として『ホビイストへの公開状』という文章を書き、ホームブリュー・コンピュータ・クラブの会報などの様々なコンピュータ関係の出版物に送った。この中でゲイツは、ソフトウェアをコピーする行為は窃盗だとして非難し、人々がお金を払わないソフトウェアの開発の継続はできないと宣言した。 MITS社は1975年11月に、MC6800を使用した新しいコンピュータ、Altair 680を発表した。このマシンは1976年1月に出荷されることになっていたが、ハードウェアの設計上の問題で5月まで出荷が遅れた。アレンは、6800に対応するように8080シミュレータを書き直した。ゲイツとアレンの高校時代の友人であるリック・ウェイランドは、Altair BASICの8080アセンブリ言語を6800アセンブリ言語に移植した。海賊版によるロイヤルティ損失問題の解消のため、6800版BASICはMITS社に対し31,200ドル一括払いの非独占的なライセンスを与えた。ウェイランドとマーク・マクドナルド(英語版)は、6800から派生した新しいマイクロプロセッサMOS 6502に感銘を受けた。彼らは、6800の開発システムを6502に対応するように改造し、6502版のBASICを作り出した。このバージョンは後にコモドールとアップルに販売された。 『コンピュータ・ノーツ』1976年1月号には、8080 BASICの広告が掲載された。その最後の段落には次のように書かれている。「ソースリストとバイナリを配布する権利のためのライセンスはOEM購入者にも利用可能です。より詳細な情報についてはアルバカーキにあるMITS社工場のポール・アレン氏に手紙か電話でお問い合わせください。」マイクロソフトは、BASICの複数の企業顧客を見つけ、収益はMITS社と均等に分割された。1976年12月にMITS社を買収したパーテック社は、それ以上のOEM取引を許可することを拒否した。これは、MITS社がソフトウェアのライセンスを取得するための「最善の努力」をするというマイクロソフトとの契約に反するものだった。MITS社とマイクロソフトは、紛争を解決するために、拘束力のある仲裁を使用した。1977年9月、仲裁人はマイクロソフトに有利な判決を下した。MITS社は自社のマシン上でBASICを使用し続けることはできるが、独占的なライセンスを失った。マイクロソフトでは、誰にでもソフトウェアのライセンスを取得し、ロイヤルティの全てを取得することができるようになった。 マイクロソフトは、もはやアルバカーキに留まる必要がなくなったため、より魅力的な大都市への移転を希望した。サンフランシスコ・ベイエリアも検討されたが、アレンとゲイツは故郷のシアトルに戻ることにした。マイクロソフトは1979年1月にシアトル郊外のワシントン州ベルビューに移転した。
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Altair BASIC
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「ホビイストたちへの公開状」の記事における「Altair BASIC」の解説
詳細は「Altair BASIC」を参照 1974年12月、ハーバード大学の学生だったビル・ゲイツとボストンのハネウェル社に勤務していたポール・アレンは、『ポピュラーエレクトロニクス』誌1975年1月号に掲載されたAltair 8800を目にした。彼らはシアトルのレイクサイド・スクール在学中からBASICのプログラムを書いており、AltairがBASICのインタプリタを実行するのに十分なパワーを持っていることを見抜いた。彼らはAltairにBASICを提供する最初の企業になりたいと考えていた。彼らが以前にトラフォデータ(英語版)の名前で作成していたIntel 8008ベースのソフトウェア開発ツールにより、彼らが先陣を切ることが可能となった。 1975年3月初旬までに、ポール・アレン、ビル・ゲイツ、モンティ・ダビドフの3人は、ハーバード大学のPDP-10上のAltairのエミュレータで動作するBASICインタプリタを作成していた。アレンとゲイツはMITS社のエド・ロバーツに連絡を取っており、1975年3月にアレンはニューメキシコ州アルバカーキのMITS社へ行き、実機でソフトウェアをテストした。アレンとロバーツは、ソフトウェアがちゃんと動いたことに驚いた。 MITS社は、アレンとゲイツからソフトウェアのライセンスを受けることに合意した。アレンはハネウェルを辞め、年俸3万ドルでMITS社の副社長兼ソフトウェア・ディレクターに就任した。ビル・ゲイツは当時まだハーバード大学の学生で、MITS社の請負作業者に過ぎなかった。1975年10月の社内報には、ゲイツの肩書きは「ソフトウェアスペシャリスト」と記載されている。1975年7月22日、MITS社はアレンとゲイツとの契約に署名した。彼らは署名時に3000ドルを受け取り、BASICの各コピーが1つ売れるごとに、4K版は30ドル、8K版は35ドル、拡張版は60ドルのロイヤルティーが支払われた。ロイヤルティの支払いの上限は18万ドルだった。MITS社は、このプログラムの10年間の世界的な独占ライセンスを受けた。MITS社は、アルバカーキ学区が所有するPDP-10の使用時間を、BASICの開発のために提供した。 MITS社のニュースレター『コンピュータ・ノーツ』の1975年4月号には、「Altair BASIC - Up and Running」という記事が掲載されていた。Altair 8800の販売価格は、MITS社にとっては損益分岐点だった。利益を上げるためには、追加のメモリボード、I/Oボードなどのオプション品を販売する必要があった。BASICの単体での価格は500ドルだったが、2枚の4KメモリボードとI/Oボードと一緒に購入した場合、8K BASICで75ドルまで値下げされた。 MITSはキャンピングカーを購入して「MITSモバイル号」と名付け、Altair製品を搭載して全米を巡回し、Altair 8800とAltair BASICをフィーチャーしたセミナーを各地で開催した。 ホームブリュー・コンピュータ・クラブは、カリフォルニア州パロアルトの初期のコンピュータ・ホビイストのクラブだった。1975年3月の最初の会合では、スティーブ・ダンピエが、アルバカーキのMITS社を訪問して、自分が注文したAltairを持ち帰ったときのことを語った。1975年4月16日のクラブの会合では、ダンピエが短いプログラムを入力すると、Altairのそばに置いたAMラジオから『フール・オン・ザ・ヒル』のメロディが鳴った。『コンピュータ・ノーツ』1975年7月号では、ビル・ゲイツがこれを「私が見たAltairのデモプログラムの中で最高のもの」と評している。しかし、ゲイツは、どうやってAltairからAMラジオに放送できたのかを理解することができなかった(それは、プログラムのタイミングループによって制御された電波の干渉か静電気によるものだった)。
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Altair BASIC
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「エド・ロバーツ」の記事における「Altair BASIC」の解説
詳細は「Altair BASIC」を参照 Altair 8800が表紙の『ポピュラーエレクトロニクス』誌をビル・ゲイツとポール・アレンが見たのは、ゲイツがハーバード大学の学生で、アレンがボストンのハネウェル社で働いているときだった。彼らは以前、Intel 8008用のソフトウェアを書いており、Intel 8080がBASICのインタプリタを動かすのに十分な能力を持っていることを知っていた。彼らは、8080用のBASICインタプリタを作成したという手紙をMITS社に送った。ロバーツが興味を持ったので、ゲイツとアレンはソフトウェアの作成を開始した。2人ともDECのミニコンピュータPDP-10を使用した経験があった。アレンは、DECのマクロアセンブラを修正して8080用のコードを作成し、8080をエミュレートするプログラムを書いて、Altairを持っていなくてもBASICのテストができるようにした。DECのBASIC-PLUS(英語版)を手本として、ゲイツはAltairの限られたリソースでどのような機能を動作させるかを決定した。ゲイツはその後、8080アセンブリ言語のコードを黄色のリーガルパッドに書き始めた。2月、ゲイツとアレンは、ハーバード大学のPDP-10でBASICのコーディングとデバッグを始めた。また、浮動小数点演算ルーチンを書くために、ハーバード大学の学生モンティ・ダビドフを雇った。 ポール・アレンは1975年3月、実物のAltair 8800でBASICをテストするため、ニューメキシコ州アルバカーキに飛んだ。ゲイツは、アレンがボストンを出発する直前にBASICインタプリタを紙テープに保存し、アレンに渡していた。ロバーツは空港でアレンをピックアップトラックに乗せ、MITSの店先まで車を走らせた。BASICが必要とする7キロバイトのメモリを搭載したAltairはまだテスト中で、翌日にならないと準備ができない状態だったため、ロバーツはアレンのためにアルバカーキで一番高いホテルを予約していた。しかし、その宿泊料はアレンが持って来ていた全額よりも40ドルも高かったため、ロバーツが宿泊料を支払った。ロバーツは、ホテルの宿泊料を支払う余裕もないこのソフトウェア野郎(software guy)は一体何者なのだろうと思った。 翌日、7キロバイトのAltairはようやくメモリテストに合格した。テレタイプ端末ASR-33がAltairにプログラムをロードするのに15分近くかかり、テレタイプ端末に"MEMORY SIZE?"と表示された。アレンが"7168"と入力すると、テレタイプ端末に"READY"と表示された。アレンとロバーツの両氏は、自分たちのソフトウェアとハードウェアがちゃんと動作していることに驚いた。彼らはいくつかの小さなプログラムを入力し、動作させた。BASICインタプリタは完全ではなく、何度かクラッシュしたが、これでロバーツのコンピュータに高レベル言語が用意された。ロバーツはアレンをMITS社の副社長兼ソフトウェア担当ディレクターとして雇った。ビル・ゲイツもMITS社で働いていた。1975年10月の社内報では、ゲイツの肩書きは「ソフトウェア・スペシャリスト」となっている。 ビル・ゲイツはハーバード大学に残り、BASICの研究を続けた。ハーバード大学の学生は大学のDEC PDP-10を自由に使用することができたが、ゲイツがこれを使って商用製品を開発していたことが判明し、関係者はそれを快く思っていなかった。学校はその後、ゲイツに商用のタイムシェアサービスを利用してBASICの開発に取り組ませる方針を打ち出した。 1975年7月22日、MITS社はゲイツ、アレンとAltair BASICの契約を結んだ。彼らは署名時に3,000ドルを受け取り、その後はソフトウェアのコピーを1つ販売するごとにロイヤルティを上限18万ドルで受け取る契約だった。MITS社は10年間のプログラムの世界的な独占ライセンスを受けた。彼らはまた、他の企業にプログラムをサブライセンスするための排他的な権利を有し、その「最善の努力」を使用してライセンスを促進し、プログラムを商業化することに合意した。MITS社は、アルバカーキ学区が所有するPDP-10の使用時間を、BASICの開発のために提供した。 MITS社は、BASICは競争上の優位性となることに気付き、ハードウェアとソフトウェアをバンドルして販売した。MITSからコンピュータ、メモリ、I/Oボードを購入した顧客は、75ドルでBASICを入手することができたが、BASIC単体での販売価格は500ドルだった。多くのホビイストは、サードパーティからハードウェアを購入し、Altair BASICのコピーを「借りて」使っていた。ロバーツは他の企業にBASICをサブライセンスすることを拒否したため、1977年にMITS社と、ゲイツらのマイクロソフトとの間で調停が行われた。調停者はマイクロソフトと合意し、他の企業に8080 BASICをライセンスすることを許可した。ロバーツはこの決定に失望した。アレン、ゲイツともにMITS社の従業員であり、彼らが使ったコンピュータの使用料はロバーツが支払っていたので、ロバーツはBASICは自分のソフトウェアだと思っていた。
※この「Altair BASIC」の解説は、「エド・ロバーツ」の解説の一部です。
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