1966シュピーゲルインタビューとは? わかりやすく解説

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1966シュピーゲルインタビュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)

マルティン・ハイデッガー」の記事における「1966シュピーゲルインタビュー」の解説

1966年2月デア・シュピーゲルで「ハイデッガーフッサール大学への立入り禁止した」「ハイデッガーヤスパース訪ねなくなったのは、ヤスパース夫人ユダヤ人だからである」と報じられると、ヤスパースは「シュピーゲル誌はかつての悪い流儀逆戻りしている」とアレント手紙書きアレントはこうした流儀アドルノ一派よるもので、アドルノホルクハイマーは「自分たちに敵対する者にはすべて反ユダヤ主義罪を着せるか、罪を着せる脅かしてきていました」と述べている。 こうしたことを背景ハイデッガー生前インタビュー発表しないという条件1966年9月23日シュピーゲルインタビュー応じた。このインタビューハイデッガーは、学長職はメーレンドルフ副学長から引き継ぎ頼まれ引き受けたものであったこと、「ドイツ大学自己主張演説については「ナチス党国家社会主義学生組織要求する政治科学>に抵抗するものであった当時の<政治科学>とは、現在でいう科学ではなく人民のための実践的な有効性を従ってのみ判定されるものであった」、タイトルにある<自己主張>とは、「西洋思想伝統反省通じて大学の意味回復させ、大学がただの技術組織ではないということ目指したものだった」 と述べた1938年フッサール葬儀出席しなかったことについては、それより5年前1933年5月に「ハイデッガーの妻からフッサール夫人出した手紙出したが、フッサール夫人からの手紙は形式的なもので、両家族の交遊その時点で壊れてしまった。フッサールへの私の愛情尊敬の念を再び表現しなかったままフッサール死去したことは、私の人間としての過ちであった。そう私はフッサール夫人の手紙で謝罪した」と述べた学長辞任後1934年論理学講義1934年-35年冬学期ヘルダーリン講義1936年ニーチェ講義は「聞く耳を持っていた人はみんな、これがナチズムとの対決であったということ聴き取りました」と述懐している。ハイデッガー後継学長法学)の就任についてナチ党機関紙 Der Alemanne (アレマンネ)での報道では「初の国家社会主義者 大学学長に」と見出し出たという。 インタビュアーのアウクシュタインはユルゲン・ハーバーマス1953年指摘した次の点、すなわち1935年『形而上学入門』で「今日国民社会主義哲学として出回っているが、この運動の内的真理偉大さはまった何の関係もないものは、価値全体性濁流のなかで網打ち漁をしている」と述べられ箇所について、同書戦後1953年刊行した際には「運動(つまり、惑星規模規定され技術近代人との出会い)」と括弧挿入語句付け加えられ問題について問うた。ハイデッガーはこれは最初草稿にあったものだが、私の技術性についての思索正確に表現しよう務めたためで、この1935年時点ではまだGe-stell概念説明はなっていないし、また当時の私の聴衆は、ナチスパイ密告者とは違って正確に理解できる確信していためと述べたまた、共産主義アメリカニズムこうした惑星レベル技術性形式のひとつにほかならないし、「この30年間が明らかにしたことは、近代技術惑星規模運動歴史決定するということがほとんど考慮されていないということです」「技術時代にふさわしい政治形式がなにかについて答えはありません。それが民主主義であるとも確信できません」「技術本質は、人間自分自身の力でマスターできるものではない」「原爆のように我々を根こそぎにするものは必要ないのです」とも述べた。このインタビューハイデッガー没後1976年5月31日シュピーゲル誌に掲載された。 1966年から1967年にかけてフライブルク大学オイゲン・フィンク共同ゼミナールヘラクレイトス」を開いた1967年4月4日アテネ学芸アカデミーで「芸術由来思索使命」を講演同年ハンブルク大学カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー(弟は第6代連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー)のゼミナールで「時間存在」を朗読、夜の対話学生運動新左翼についての話題となったが、ハイデッガーは「まだ我々を救えるものがあるとすれば、それは神だけです」と語った1967年7月24日詩人パウル・ツェランフライブルク大学朗読会開きハイデッガー聴衆としており、翌日7月25日、トートナウベルクのハイデッガー山荘訪れたツェランから詩を送られハイデッガー1968年1月30日礼状書簡で「私は幾つかのことはまだ、いつの日か無-言脱して対話入れるものと思っています」と書いた。1967年ハンナ・アレントハイデッガー訪問1968年、原祐と渡邊二郎訪問する4月9日ハイデッガー、スイスザンクト・ガレンでの彫刻家マンズ展覧会に行く。9月3日ハイデッガー画家セザンヌアトリエ訪問した1969年8月ハンナ・アレントが夫ハインリヒ・ブリューヒャーとハイデッガー訪問し、それからは毎年のようにハイデッガー宅を訪問する9月17日、R・ヴィッサーとTV対談自宅撮影ハイデッガーTV自宅置いていないと語る。スイスザンクト・ガレンのエルカー書店より『芸術空間』、マックス・ニーマイヤー書店より『思索事柄へ』刊行1970年、クロスターマン社より『現象学神学』、フィンクとの共著ヘラクレイトス刊行。「思い」を執筆し翌年ドミニク・フルカド編『ルネ・シャール』(レルネ出版)に掲載

※この「1966シュピーゲルインタビュー」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
「1966シュピーゲルインタビュー」を含む「マルティン・ハイデッガー」の記事については、「マルティン・ハイデッガー」の概要を参照ください。

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