1966シュピーゲルインタビュー
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「1966シュピーゲルインタビュー」の解説
1966年2月、デア・シュピーゲルで「ハイデッガーがフッサールの大学への立入りを禁止した」「ハイデッガーがヤスパースを訪ねなくなったのは、ヤスパース夫人がユダヤ人だからである」と報じられると、ヤスパースは「シュピーゲル誌はかつての悪い流儀に逆戻りしている」とアレントに手紙で書き、アレントはこうした流儀はアドルノ一派によるもので、アドルノとホルクハイマーは「自分たちに敵対する者にはすべて反ユダヤ主義の罪を着せるか、罪を着せると脅かしてきていました」と述べている。 こうしたことを背景にハイデッガーは生前にインタビューを発表しないという条件で1966年9月23日、シュピーゲルのインタビューに応じた。このインタビューでハイデッガーは、学長職はメーレンドルフと副学長から引き継ぎを頼まれて引き受けたものであったこと、「ドイツ大学の自己主張」演説については「ナチス党と国家社会主義学生組織が要求する<政治科学>に抵抗するものであった。当時の<政治科学>とは、現在でいう科学ではなく、人民のための実践的な有効性を従ってのみ判定されるものであった」、タイトルにある<自己主張>とは、「西洋思想の伝統の反省を通じて大学の意味を回復させ、大学がただの技術組織ではないということを目指したものだった」 と述べた。1938年のフッサールの葬儀に出席しなかったことについては、それより5年前の1933年5月に「ハイデッガーの妻からフッサール夫人へ出した手紙を出したが、フッサール夫人からの手紙は形式的なもので、両家族の交遊はその時点で壊れてしまった。フッサールへの私の愛情と尊敬の念を再び表現しなかったままフッサールが死去したことは、私の人間としての過ちであった。そう私はフッサール夫人への手紙で謝罪した」と述べた。学長辞任後の1934年の論理学講義、1934年-35年冬学期のヘルダーリン講義、1936年のニーチェ講義は「聞く耳を持っていた人はみんな、これがナチズムとの対決であったということを聴き取りました」と述懐している。ハイデッガーの後継学長(法学)の就任についてナチ党機関紙 Der Alemanne (アレマンネ)での報道では「初の国家社会主義者 大学学長に」と見出しが出たという。 インタビュアーのアウクシュタインはユルゲン・ハーバーマスが1953年に指摘した次の点、すなわち1935年の『形而上学入門』で「今日、国民社会主義の哲学として出回っているが、この運動の内的真理と偉大さとはまったく何の関係もないものは、価値と全体性の濁流のなかで網打ち漁をしている」と述べられた箇所について、同書が戦後1953年に刊行した際には「運動(つまり、惑星規模で規定された技術と近代人との出会い)」と括弧で挿入語句が付け加えられた問題について問うた。ハイデッガーはこれは最初の草稿にあったものだが、私の技術性についての思索を正確に表現しようと務めたためで、この1935年の時点ではまだGe-stellの概念の説明にはなっていないし、また当時の私の聴衆は、ナチのスパイや密告者とは違って、正確に理解できると確信していためと述べた。また、共産主義やアメリカニズムもこうした惑星レベルの技術性の形式のひとつにほかならないし、「この30年間が明らかにしたことは、近代技術の惑星規模の運動が歴史を決定するということがほとんど考慮されていないということです」「技術時代にふさわしい政治形式がなにかについて答えはありません。それが民主主義であるとも確信できません」「技術の本質は、人間が自分自身の力でマスターできるものではない」「原爆のように我々を根こそぎにするものは必要ないのです」とも述べた。このインタビューはハイデッガー没後の1976年5月31日にシュピーゲル誌に掲載された。 1966年から1967年にかけてフライブルク大学でオイゲン・フィンクと共同ゼミナール「ヘラクレイトス」を開いた。 1967年4月4日、アテネ学芸アカデミーで「芸術の由来と思索の使命」を講演。同年ハンブルク大学でカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー(弟は第6代連邦大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー)のゼミナールで「時間と存在」を朗読、夜の対話で学生運動と新左翼についての話題となったが、ハイデッガーは「まだ我々を救えるものがあるとすれば、それは神だけです」と語った。1967年7月24日、詩人パウル・ツェランがフライブルク大学で朗読会を開き、ハイデッガーも聴衆としており、翌日7月25日、トートナウベルクのハイデッガー山荘を訪れた。ツェランから詩を送られたハイデッガーは1968年1月30日付礼状書簡で「私は幾つかのことはまだ、いつの日か、無-言を脱して対話に入れるものと思っています」と書いた。1967年、ハンナ・アレントがハイデッガーを訪問。 1968年、原祐と渡邊二郎が訪問する。4月9日、ハイデッガー、スイスザンクト・ガレンでの彫刻家マンズの展覧会に行く。9月3日、ハイデッガー、画家セザンヌのアトリエを訪問した。 1969年8月、ハンナ・アレントが夫ハインリヒ・ブリューヒャーとハイデッガーを訪問し、それからは毎年のようにハイデッガー宅を訪問する。9月17日、R・ヴィッサーとTV対談を自宅で撮影。ハイデッガーはTVを自宅に置いていないと語る。スイスザンクト・ガレンのエルカー書店より『芸術と空間』、マックス・ニーマイヤー書店より『思索の事柄へ』刊行。 1970年、クロスターマン社より『現象学と神学』、フィンクとの共著『ヘラクレイトス』刊行。「思い」を執筆し、翌年ドミニク・フルカド編『ルネ・シャール』(レルネ出版)に掲載。
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