18~20世紀とは? わかりやすく解説

18~20世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 07:10 UTC 版)

カザーク歴史」の記事における「18~20世紀」の解説

カザーク歴史にとって重要な転期は、ピョートル1世北方戦争時代であったといえるドン地方では1707年ピョートル逃亡農民逮捕のために軍隊派遣したことから、ブラーヴィンの指揮下に下層カザークの大反乱起って一年以上も続いた。この鎮圧後政府ドン対す統制強化し1723年には首長政府任命とし、1754年には指導部はすべて任命制にしてしまった。ブラーヴィンと同時にこれに呼応して反乱おこしたザポロージェのカザークロシア側とスウェーデン側に別れて対立していることを利用しポルタヴァの戦いのあった1709年にザポロージェの本営 (シーチ)を占領破壊し、彼らはドニエプル下流に移らざるをえなかった。そしてウクライナカザーク首長選挙制も廃止してしまった。 十七世紀以来自治権をもって政府の不正規軍役目果たしたカザーク集団は、こうして少しずつ自治権うばわれ少しずつ改編され、また居住地をいどうさせらていったが、このようなツァーリズム政策をさらに徹底させ、カザーク閉鎖的な特権的軍人身分として、正規軍中に組み込むようにした契機は、1773―75年の、ロシアにおける最後農民戦争であるプガチョフ戦争の乱であった。 この乱の指導者プガチョフラージン同村出身ドン・カザークであったが、反乱となったのはヤイーク (のちのウラル)・カザークであった。この反乱にはバシキール人などの少数民族ウラル製鉄労働者 (身分農奴であった)が大量に加わったことによって、ラージンの乱をも上廻るものとなった。このプガチョフ恐怖のもとで、政府一時再建許したザポロージェのシーチ廃止し残ったカザーク軍もまもなく正規軍解体してしまった。ドン・カザークについては、軍政もとどおり陸軍省のもとにおいたが、民政分離してカザーク選出する委員政府任命委員からなる特別委員会でおこなうこととし、ウラル・カザークからは大砲奪ってしまった。 こういう一連の処置ならんで十九世紀はじめ頃までに、カザーク将校正規軍将校同等権利許し、その階級に応じて広い土地を完全な私有地として与えてロシア貴族との融合をはかり、また一般カザークには一人30デシャチーナ(約33町歩)というロシア南東部農民十倍近く土地保有約束しそのことによって一般カザークをも政府忠誠軍人に仕立てあげようはかった。 こうして完全に政府統制下に入ったカザーク軍は、いわば屯田兵的な性格をもつこととなった軍国所在地すべての事項は、陸軍省カザーク総局管轄下におかれた。全カザーク軍総司令官 (首長アタマン)は皇太子とされ、各軍管区司令官任命制で、その下の大村部落段階 (これがそのまま部隊の単位ともなる)の指揮官 (首長)はそれぞれのカザーク総会選出される十八歳以上のカザークは、一定の土地与えられるかわりに被服装備乗馬サーベル自弁ととのえ二十年軍務 (うち教育期間三年―のちに一年短縮現役四年、予備役八年後備役五年)に服した帝政末期カザーク軍は、最大のものがドンクバン (北カフカース)にあり、そのほかヨーロッパ部分にはチェレクウラルオレンブルクアストラハンに、アジア部分にはセミレーチエ、シベリアザバイカルアムールウスリーの計十一軍団とはかきシベリア居住する集団、一独主連隊からなっていて、平時約七戦時二十八万五千であった (その家族あわせて1996年四百四十三千人)。以上のようなカザーク身分は、特権保証されていることによって、また祖先誇りともまじって身分的特権意識かたちづくり、それと同時に強い共同体意識と、それと裏腹な同じ地域に住む一般農民対す差別意識を生みだし、また特別に選抜されてできる近衛カザーク軍隊もおかれたこととあいまってツァーリズム信頼できる武力となり、二十世紀入って兵器進歩によって騎兵役割低下すると、国内警察軍役割をおわされることとなった。 しかし、「勤務代償としての土地所有」という方法カザーク社会を旧守的なものにとどめようといかに政府つとめようとも、十九世紀後年からの農村への資本主義浸透の影響は、ここにもあらわれてこざるをえなかった。経済生活において重要な漁業大規模なものはよそ者資本家の手にぎられ農業でも工芸作物加工はやはり外来ブルジョワジーの手中にあり、一般に流通面よそ者支配をうけていた。こういう商品経済の波をかぶってカザーク内に貧農中農富農がでてくるのだが、全体としては、資本主義発展のまえに守勢にたたざるをえないカザークはこれに反感をいだき、保守的性格残していた。

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18-20世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/11 09:57 UTC 版)

セント・マリー・ザ・クラウンズ教会」の記事における「18-20世紀」の解説

セント・マリー・ザ・クラウンズ教会は、1704年ジブラルタル占領略奪を受けなかった唯一のカトリック施設である。敬虔な司祭 Juan Romero de Figueroa と、彼の補助司祭と、彼の鳴鐘人は、首尾よくこの教会守った.。かくしてここは、キリスト教徒による町の再占領後妨げられることなくカトリック礼拝が行なわれてきた唯一の場所となった。 この建物は、1779年-1783年ジブラルタル包囲戦深刻な被害受けたため、1790年当時ジブラルタル総督ロバート・ボイド(英語版)は、教会建て直す見返りに、メイン・ストリート経路変更するべく、教会がもと建っていた土地提供させる提案をした。教会1810年建て直され、その機会メイン・ストリート道幅広げられた。1820年には時計台付け加えられた。1931年には修復工事が行なわれ、西面ファサード1810年建てられ貧相なものから現在のもの建て替えられた。 19世紀までは、ジブラルタル死んだ者は誰でもこの教会床下埋葬される資格があった。司教たちは聖母マリア像 (Our Lady of Europe) の下の地下聖堂葬られている。 1943年ジブラルタル沖で航空機事故死したヴワディスワフ・シコルスキが、埋葬前にここで安置公開された。

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