18~20世紀
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カザークの歴史にとって重要な転期は、ピョートル1世の北方戦争の時代であったといえる。ドン地方では1707年にピョートルが逃亡農民の逮捕のために軍隊を派遣したことから、ブラーヴィンの指揮下に下層カザークの大反乱が起って一年以上も続いた。この鎮圧後、政府はドンに対する統制を強化し、1723年には首長を政府任命とし、1754年には指導部はすべて任命制にしてしまった。ブラーヴィンと同時にこれに呼応して反乱をおこしたザポロージェのカザークがロシア側とスウェーデン側に別れて対立していることを利用し、ポルタヴァの戦いのあった1709年にザポロージェの本営 (シーチ)を占領破壊し、彼らはドニエプルの下流に移らざるをえなかった。そしてウクライナのカザーク首長の選挙制も廃止してしまった。 十七世紀以来、自治権をもって政府の不正規軍の役目を果たしたカザーク集団は、こうして少しずつ自治権をうばわれ、少しずつ改編され、また居住地をいどうさせらていったが、このようなツァーリズムの政策をさらに徹底させ、カザークを閉鎖的な特権的軍人身分として、正規軍の中に組み込むようにした契機は、1773―75年の、ロシアにおける最後の農民戦争であるプガチョフ戦争の乱であった。 この乱の指導者プガチョフはラージンと同村出身のドン・カザークであったが、反乱の核となったのはヤイーク (のちのウラル)・カザークであった。この反乱にはバシキール人などの少数民族とウラルの製鉄労働者 (身分は農奴であった)が大量に加わったことによって、ラージンの乱をも上廻るものとなった。このプガチョフの恐怖のもとで、政府は一時再建を許したザポロージェのシーチを廃止し、残ったカザーク軍もまもなく正規軍に解体してしまった。ドン・カザークについては、軍政はもとどおり陸軍省のもとにおいたが、民政を分離してカザークの選出する委員と政府任命委員とからなる特別委員会でおこなうこととし、ウラル・カザークからは大砲を奪ってしまった。 こういう一連の処置とならんで、十九世紀はじめ頃までに、カザーク将校に正規軍将校と同等の権利を許し、その階級に応じて広い土地を完全な私有地として与えて、ロシア貴族との融合をはかり、また一般のカザークには一人30デシャチーナ(約33町歩)というロシア南東部の農民の十倍近くの土地保有を約束し、そのことによって一般のカザークをも政府の忠誠な軍人に仕立てあげようとはかった。 こうして完全に政府の統制下に入ったカザーク軍は、いわば屯田兵的な性格をもつこととなった。軍国の所在地すべての事項は、陸軍省のカザーク軍総局の管轄下におかれた。全カザーク軍総司令官 (首長、アタマン)は皇太子とされ、各軍と管区の司令官は任命制で、その下の大村、村、部落段階 (これがそのまま部隊の単位ともなる)の指揮官 (首長)はそれぞれのカザーク総会で選出される。十八歳以上のカザークは、一定の土地を与えられるかわりに、被服、装備、乗馬、サーベル、槍を自弁でととのえ二十年の軍務 (うち教育期間三年―のちに一年に短縮、現役四年、予備役八年、後備役五年)に服した。帝政末期のカザーク軍は、最大のものがドンとクバン (北カフカース)にあり、そのほかヨーロッパ部分にはチェレク、ウラル、オレンブルク、アストラハンに、アジア部分にはセミレーチエ、シベリア、ザバイカル、アムール、ウスリーの計十一軍団とはかきシベリアに居住する二集団、一独主連隊からなっていて、平時約七万、戦時二十八万五千であった (その家族をあわせて1996年で四百四十三万四千人)。以上のようなカザークの身分は、特権を保証されていることによって、また祖先の誇りともまじって、身分的特権意識をかたちづくり、それと同時に強い共同体意識と、それと裏腹な同じ地域に住む一般農民に対する差別意識を生みだし、また特別に選抜されてできる近衛カザーク軍隊もおかれたこととあいまって、ツァーリズムの信頼できる武力となり、二十世紀に入って兵器の進歩によって騎兵の役割が低下すると、国内警察軍の役割をおわされることとなった。 しかし、「勤務の代償としての土地所有」という方法でカザーク社会を旧守的なものにとどめようといかに政府がつとめようとも、十九世紀後年からの農村への資本主義の浸透の影響は、ここにもあらわれてこざるをえなかった。経済生活において重要な漁業は大規模なものはよそ者の資本家の手ににぎられ、農業でも工芸作物の加工はやはり外来のブルジョワジーの手中にあり、一般に流通面でよそ者の支配をうけていた。こういう商品経済の波をかぶってカザーク内に貧農、中農、富農がでてくるのだが、全体としては、資本主義の発展のまえに守勢にたたざるをえないカザークはこれに反感をいだき、保守的性格を残していた。
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18-20世紀
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「セント・マリー・ザ・クラウンズ教会」の記事における「18-20世紀」の解説
セント・マリー・ザ・クラウンズ教会は、1704年のジブラルタル占領で略奪を受けなかった唯一のカトリック施設である。敬虔な司祭 Juan Romero de Figueroa と、彼の補助司祭と、彼の鳴鐘人は、首尾よくこの教会を守った.。かくしてここは、キリスト教徒による町の再占領後も妨げられることなくカトリックの礼拝が行なわれてきた唯一の場所となった。 この建物は、1779年-1783年のジブラルタル包囲戦で深刻な被害を受けたため、1790年に当時のジブラルタル総督ロバート・ボイド(英語版)は、教会を建て直す見返りに、メイン・ストリートの経路を変更するべく、教会がもと建っていた土地を提供させる提案をした。教会は1810年に建て直され、その機会にメイン・ストリートの道幅も広げられた。1820年には時計台が付け加えられた。1931年には修復工事が行なわれ、西面のファサードは1810年に建てられた貧相なものから現在のものに建て替えられた。 19世紀までは、ジブラルタルで死んだ者は誰でもこの教会の床下に埋葬される資格があった。司教たちは聖母マリア像 (Our Lady of Europe) の下の地下聖堂に葬られている。 1943年、ジブラルタル沖で航空機事故死したヴワディスワフ・シコルスキの棺が、埋葬前にここで安置・公開された。
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