18,19世紀における再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 08:48 UTC 版)
「フレンスブルク」の記事における「18,19世紀における再興」の解説
18世紀のフレンスブルクはラム酒貿易のおかげで二度目の開花期を迎えた。ラム酒はカリブ海からフレンスブルクに輸入され、当地で混合酒として調合されて全ヨーロッパに流通されたため、フレンスブルクはいわばカリブ海貿易のヨーロッパ拠点とも言えた。また、ラム酒の製造に必要な砂糖は、当初の頃は、サトウキビは当時のデンマーク植民地であったカリブ海の小アンティル諸島から輸入してフレンスブルクで砂糖に精製しており、おそらく三角貿易であったと思われる。しかし、19世紀初頭、貨物列車の登場によりフレンスブルクの精糖業は近隣の大都市であるコペンハーゲンとハンブルクに押されてしだいに衰退することになる。しかし、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争後の1864年以降、サトウキビの入手先が小アンティル諸島から当時の英国の植民地であったジャマイカに変わって砂糖の必要量は確保された。こうして、フレンスブルクにおいてラム製造商はかつては20を越えていたが、その中でもとりわけハンゼンHansen、ポットPott、ゾンベルクSonnberg、アスムッセンAsmussen、デトレッフセンDetleffsenなどが街に影響力を持っていたとされる。今でも当時のハンゼンがヨハンゼン・ラムハウスとしてフレンスブルクのマリエンブルク地区に残っている。 1460~1864年の間、フレンスブルク港は当時のデンマーク国家の中でコペンハーゲンについで二番目に大きな港であった。 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争後の1864年にプロイセン王国の領土になったが、中世の宗教改革後から続いてきた中産階級に見られたドイツの文化と言語の影響に拍車がかかり、街はさらにドイツ化されていった。しかしながら今日もフレンスブルクにはデンマーク少数民族も多くいる。 医者ペーター・ヘンニクセンが1875年、町人たちと「バルト海水浴団体」を創設し、フレンスブルク・フィヨルドに療養治療も兼ね備えた屋外プールの開設を試みている。この計画の名残が今日のバルト海水浴場に見られる。
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