鵜川小学校・鵜川中学校
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年表 1872年(明治5年) - 全国に学校令が布告された為、開校の準備開始。 1874年(明治7年) - 2月25日 宮原観音寺を借りて「六大区小四区第14小学校」開校。男女共学で児童数31名。附属校は野田校、木沢校、折居校、石黒校の4校。 当時は希望者のみが入学。小学校ができるまでは、教育は少なく学問を志す人は学識者に弟子入りするか、村の中で知識のある人から読み書きやそろばんを習う程度だった。また、当時の大区長は岡野町の村山藤兵衛氏だったため、学校の書籍や用具などの必要な物は鳴鶏城峠を超え、岡野町で大区長の受領を受け、それを各附属校に分配していた。 1879年(明治12年) - 「公立女谷小学校」に改称。また、附属校4校は独立校になる。校舎増築。 1886年(明治19年) - 入学が義務制になる。 1890年(明治23年) - 「村立女谷小学校」に改称。当時の児童数は149人。 1895年(明治28年) - 村議にかけ、4間×5間の2階建ての校舎を増築。費用は寄付金と村費で賄った。 1896年(明治29年) - 御真影拝戴。 1897年(明治30年) - 2月17日 組合立高等小学校設置(現在の中学校に相当する)の認可を得たことで、折居、石黒、女谷併立開校する。 1897年(明治30年) - 10月30日 「鵜川尋常高等小学校」に改制。それに伴い、生徒数が増加したため翌年から2年校舎を増築。 1901年(明治34年) - 女谷村が合併し鵜川村になったため、「村立鵜川尋常高等小学校」に改称。児童数318名。 1909年(明治42年) - 「鵜川村立鵜川尋常高等小学校」に改称。児童数379名。 1911年(明治44年) - 校舎が新舎になる。児童数429名。 1913年(大正2年) - 清水谷分校の校舎新築。児童数455名。 1923年(大正12年) - 校舎改築。児童数545名。 校舎改築に踏み切ったものの、敷地が狭かったため観音寺を高原田の地蔵堂と合併し、「堂の前」を移転、役場の位置も県道沿いの横道に移すなどしてどうにか校舎を増築した。 1928年(昭和3年) - 鵜川小学校が移転。この際移転された場所が閉校まで利用されることとなった。児童数545人。 移転は昭和に入ったことでさらに児童が増えたことにあった。児童数増加により増築問題に直面したのだが、敷地が足りなく困難を極めた。移転前の土地付近の農家を移転すると建設費が多大になる。一方、他に移転する場所もない。このことから、「農家移転派」と「校舎移転派」の意見で村が二分した。「校舎移転」にする場合は、農家の移転費用が不要で見積額の半分程で済むことから「校舎移転派」の内内で合議を行い、「農家移転派」に相談せずに当時女谷村に住んでいなかった、布施庄兵衛氏の宅地を懇願することとした。そして、柏崎市西本町に在住していた布施貞夫氏に懇請すると、同氏は快諾。更に、静雅園も寄付した。同園は6日かけ5人の庭師が手入れをし、以降の管理費として500円寄附(現在の約50万円)。また、学校用試作地として裏地の2反も寄付。管理費は学校貯金され、当分利子で庭園の手入れが行われた。 1941年(昭和16年) - 「鵜川国民学校」に改称。初等科6年の高等科2年制になる。児童数624名。 1943年(昭和18年) - 5間×10間の2階建て校舎を増築。工費は総額2万円。児童数605人。 1945年(昭和20年) - 終戦に伴い、御真影を刈羽地方事務所は奉還。児童数667名。 1947年(昭和22年) - 学校教育法施行に伴い、小学校6年中学校3年の義務制になる。よって「鵜川小学校」「鵜川中学校」に。中学校は小学校の空室を利用し開校。児童数、小学校451名・中学校204名。 1950年(昭和25年) - 中学校校舎完成。児童数、小学校430名・中学校438名。 1952年(昭和27年) - 学校給食(汁のみ)が開始。教育委員会発足。中学校の体育館、廊下、便所が完成。 1956年(昭和31年) - 「黒姫村立鵜川小学校」「黒姫村立鵜川中学校」に改称。児童数、小学校437名・中学校213名。 1963年(昭和38年) - 2階建て鉄筋コンクリート造りに改築。尚、この校舎は刈羽郡では最初の近代的校舎となった。児童数、小学校353名・中学校242名。 1968年(昭和43年) - 黒姫村が柏崎市と合併したことに伴い、「柏崎市立鵜川小学校」「柏崎市立鵜川中学校」に改称。児童数、小学校207名・中学校138名。 1969年(昭和44年) - 汁のみであった学校給食が5日制となり3人の給食婦が調理するようになる。パンは野田校から運ばれる。児童数、小学校179名・中学校124名。 1973年(昭和48年) - 7月20日 創立100年記念式とプール竣工式開催。 1981年(昭和56年) - 台風15号の被害で体育館の屋根が一部破損。 1984年(昭和59年) - 1月25日と2月6日は豪雪のため集団下校。 1990年(平成2年) - 8月7日 ドイツの国立ベルリン少年少女合唱団40名が来校。 1990年(平成2年) - 12月7日に郡発地震で校舎が大被害を受け校危険状態になった為、12月14日鵜川中学校へ移転。 1991年(平成3年) - 3月26日 鵜川中学校閉校式。 1991年(平成3年) - 4月1日 鵜川中学校が城北中学校、第四中学校と統合し柏崎市立南中学校開校。それに伴い5月に中学校舎が取り壊された。 1991年(平成3年) - 6月 小学校校舎改修工事実施。工費は5,000万円。 1994年(平成6年) - 7月22日 学校統合検討委員会にて閉校並びに野田小学校への統合が決定した。 1995年(平成7年) - 2月18日 閉校記念「綾子舞と合唱演奏会」が催される。 1995年(平成7年) - 3月26日 閉校式と惜別の会開催。 1995年(平成7年) - 3月31日 鵜川小学校閉校。123年の歴史の幕を閉じる。
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