鵜川スキー場
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昭和42年、有志により女谷の天狗松の地(標高200m)を利用し開場。年々整備が進みゲレンデの広さは6万平方メートル程。またスロープの安全性に定評があり初級・中級向けでファミリー向けのスキー場だった。さらに、県内でも有数の豪雪地帯であったため、雪解けが遅く12月から3月末までと立地が良い地域年は比較的長い期間利用できるのも特徴の一つであった。 会場当初のまだ休憩所がない段階では、鵜川中学校の体育館を借りて時折豚汁を提供し、利用者にアンケートを実施して利便性の向上を図っていた。 昭和44年2月16日には米峯スキークラブ会長の協力のもと、第1回市民スキー学校が天狗松スロープで開催された。当日には、市長等が出席していた。また、同年3月2日の第2回スキー教室には元オリンピック選手で新潟県スキー連盟顧問でもある上石巌氏が出席した。 当初は有志で開場されたスキー場であったが、昭和44年に活発に活動したことが関係してか、柏崎市に正式にスキー場を設置する交渉を開始。結果、鵜川全戸加入が望ましいとの返答を受け、全戸加入で鵜川観光協会を設立して、そこに鵜川スキー場専門部を置くこととなった。7月28日には観光協会創立総会が行われ、規約制定し施行された。 そして、同年の12月25日には満を辞して第一回スキー場開きが行われた。その際、古老からの示唆により”スキー場開きには名士が集まるであろうから”と珍味の狸汁を振る舞うこととなった。以来、狸汁の提供は長く続いた。 昭和45年10月25日には第1回鵜川地区民スキー大会が開催されるなど活発に活動するとともに、設備拡充も進んだ。同年10・11月には長さ100mのロープ塔や休憩所が完成し設置された。休憩所には食堂や売店・貸スキー室などが設けられた。また、同時期に案内板を柏崎駅など各所に設置した。翌年の46年には1,400平方メートル・収容台数70台の駐車場が整備され、市内の医師の寄付によりナイター設備が完成。そのため、土曜から月曜日までと祝日は夜間も滑れた。昭和49年にはミニジャンプ台も併設された。 しかし、スキー客の近郊への流出や設備の老朽化により利用者が減少。30年で合計18万人が訪れ、ピーク時には1シーズン8,000人の来場者を記録した鵜川スキー場は1999年(平成11年)に30年の歴史に幕を閉じ閉鎖した。
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