高速雷撃研究と框板開発
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1935年(昭和10年)末以降、横須賀海軍航空隊(横空)八分隊 雷撃班では、空技廠と共同で魚雷発射実験を繰り返し実施していた。1936〜1937年に、横空での高速雷撃研究をとおして航空魚雷を空中姿勢を安定させる木製尾翼「框板」が開発され、これによって発射法は従来より飛躍的に進歩し、航空機の旋回中、降下、上昇中も魚雷発射できるようになった。 1936年(昭和11年)、横空八分隊 雷撃班では最終段階の実用試験中の九試中攻試作機(のちの九六式陸上攻撃機、中攻)を使って高速雷撃発射法の研究を行っていた。雷撃班では、鴨遊波夫 少佐、片岡政市 少佐(海兵51期)、中尾源吾 技手たちが魚雷実験の指導と研究を行った。 雷撃に使用した機種は、当初は九二式艦上攻撃機、九試艦攻(空技廠製の九六式艦上攻撃機)で、そののち九六式陸上攻撃機(中攻)を使って高速雷撃の研究を行った。(さらに九五式陸上攻撃機(大攻)で1.5トン魚雷の雷撃実験を行った時期もあった。)当時の横空 第三飛行隊長は新田慎一 少佐(海兵51期)で、雷撃実験は、1935年末(11月)に航空母艦「赤城」から異動してきた横空 雷撃班 八分隊長の馬野光 大尉(海兵52期)が中心となって担当した。雷撃操縦員は、河野好信、田力、船津、土屋誠一(各航空兵曹)が担当していた。 雷撃実験には空気式の九一式魚雷が使われた。九四式魚雷(酸素魚雷)は、雷速は高速で気泡がほとんどなく視認困難な特長があったが、魚雷としては定針が不正確で不成績だった。 この発射実験中に、発射から着水までの落下中に左右転動、落射角の変動などが相当あることが明確になった。魚雷は、甚だしい場合には空中でピッチングを繰り返したり、ローリングが90度を超した。そのような状態の魚雷は射入点以後の進路の屈曲が甚だしく、定針までの距離が長くなり、駛走状態も悪くなった。操縦による飛行姿勢や魚雷の落下管制器を工夫したが、改善効果は思わしくなかった。 実験を担当した横空八分隊 雷撃班では、特に河野好信 空曹長が「これは、魚雷にも爆弾のように大きな尾翼を付けたら解決できるだろうに」と熱心に主張していた。それを受けて魚雷に取り付けられた初期の空中尾翼は、見かけは貧弱なベニヤ板だったが予想外に成績が良く、改良されて後の框板になった。 1936年ごろ、空中姿勢を安定させる脱落式の木製尾翼「框板」を付け、空技廠雷撃科の嘱託、村上少将が、複葉機の一〇式艦上雷撃機を使って直径 45cm の旧型の四四式二号魚雷で雷撃成功を確認し、九一式航空魚雷で 120 ノットでも雷撃が安定して成功することを確認した。この空中尾翼によって発射法は飛躍的に進歩し、航空機の旋回中、降下・上昇中も魚雷発射できるようになった。500m以上から高々度発射も行われた。 航空魚雷開発チーム・メンバーたちは、1936年に九一式航空魚雷を改めて改1とし、水中突入時に外れる形式の木製尾部安定板に対応させた。チームは翌1937年に、高度 500m と 1,000m で緩衝器付きの航空魚雷の投下テストをデモンストレーションした。航空魚雷開発チームは、中止されていた九一式航空魚雷の開発を再び開始した。 1936年(昭和11年)中に横空 雷撃班に中攻2機がそろったので、馬野分隊長は2機編隊での襲撃運動を研究した。雷撃班に最新の可変ピッチプロペラを装備した中攻の三型(金星三型エンジン搭載機)が配備されてからは、魚雷の高速発射実験で思い切った操作ができるようになった。 1937年(昭和12年)3月、横空八分隊は九五式陸上攻撃機(大攻)による大型魚雷の高速雷撃実験でフラッター事故を経験した。フラッター事故が起きたのは横須賀市三浦半島沖の観音崎で、降下中の大攻からの1トン半魚雷の高速雷撃実験中だった。この1937年春の事故を最後に1トン半の53センチ魚雷実験は終了した。そのころ、横空には1トン半魚雷は2本しかなく、毎週2本を発射実験し、小谷雄二 大尉(海兵53期、1940年中国 重慶で戦死当時13空飛行隊長)、入佐俊家 大尉(海兵52期、1944年マリアナ沖海戦で戦死当時601空司令兼航空母艦「大鳳」飛行長)、山之内醇 大尉(海兵56期、1940年中国 南京で戦死当時木更津空分隊長)、石俊平 大尉(海兵56期、戦死)たちも交互に同乗した。事故当時、主操縦は土屋兵曹、副操縦は八分隊長の馬野大尉、搭整員は河村謙吉兵曹で、魚雷兵器技術担当の片岡少佐を含む総員10名が搭乗していた。観音崎射場でエンジン全開で降下しながら速度を上げていき、高度300m、飛行速度140ノットの制限に達して魚雷発射直前に、突然エルロンからフラッターが発生し、補助翼、水平垂直尾翼の各舵とも猛烈に振動を始め操縦制御困難になった。分隊長の指示で魚雷投棄し70ノットの巡航飛行に回復したが、木更津へ戻る途中で急速にエンジン停止、そのまま高度100mから不時着水した。最前部席の小林一空兵だけが殉職したが外傷なく、他の9名は怪我なく這い出して無事だった。フラッターの最中に搭乗整備員から燃料圧力計がゼロと報告されていたので、フラッターによる燃料パイプ切断と推定された。 1938年(昭和13年)には、九一式航空魚雷は脆弱な本体を強化対応した改2になった。 1939年(昭和14年)4月、紀伊半島沖20マイルで、洋上航行中の戦艦への雷撃演習が実施された。艦底通過に調整された850kg航空魚雷を各2本搭載し横浜港を出発した横濱航空隊の九七大艇4小隊12機は、2時間後に紀伊半島沖を航行中の戦艦山城、戦艦金剛に雷撃演習を実施した。高度2000mから緩降下加速して全速力(最高速度208ノット、385km/h)にし、各小隊が四方から全機合計24本の魚雷で挟撃した。水平距離800mまで接近して850kg魚雷各2本を同時に発射し、艦底通過した白い雷跡で雷撃成功を確認した。 1939年(昭和14年)11月、連合艦隊の佐伯湾海軍大演習で、浅海面雷撃演習が実施された。湾内に警戒碇泊中の青軍側の艦船に対する奇襲攻撃を想定した。赤軍側の九七式飛行艇雷撃隊が魚雷に想定した信号弾を距離1000mで発射し、青軍側艦艇を緊急湾外脱出させた。奇襲攻撃は完全成功だが雷撃は九一式魚雷が浅海面雷撃に対応していないため効果なし、と審判官に判定された。
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