高裁判決後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:00 UTC 版)
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレビでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として両当事者からの取材を要求した。 1998年(平成10年)12月22日の高裁判決は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた。さらに、原告側から要求したものでもある原告側記者会見で、「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対し、中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した。後に明らかになったことだが、控訴審結審後の12月はじめ、原告側は高池弁護士の事務所で香港のテレビ局のインタビューに別に応じており、そこでは原告は裁判では中沢日記に依拠して事件当日は別の場所にいたと主張していた筈が、当日どこにいたか覚えていないと答え、さらに裁判では、南京戦でもその後も自身は中国人殺害を見たことはない、放火も強姦を見たことがないと述べていたにもかかわらず、このインタビューでは、戦争だからとして自身も中国人を殺したことを認めていた。東弁護団はこれを上告理由に書き加えた。しかし、これはもはや、事実認定を行う一、二審の判決後であった。 高裁判決の翌日である1998年(平成10年)12月23日の人民日報は「歴史の歪曲者が勝訴、過ちを悔いた告白者が敗訴。 東京高等裁判所が史実を顧みない不当な判決」と報じ、この裁判は「歴史の真実を後世に伝えるのを妨害するもの」によって起こされたと断じた。 東と弁護団は、控訴審判決は「歴史の事実」を根本から踏みにじったとし 、「裁判所が『まぼろし派』に加担し、きわめて政治的な判断をした」と批判し、12月25日上告。 弁護団の中北龍太郎弁護士は、原告側を支えているのは「南京事件まぼろし派」で、虐殺は中国軍の犯行と主張し、その延長線上で東日記を虚偽と決めつけたが、東日記は戦場の真実を描写した貴重な記録であり、元上官らによる訴訟は「真実の公表を妨害するための邪悪な企み」で、裁判所はこの企みに加担したと批判した。 また、高裁は「遊びは終わった」という日記の表現にこだわって、「遊び」として身の危険を全く冒さないで実行できなければ無意味と決めつけ実行不可能と判断したが、「遊び」の意味について平時の日常用語と同じものととらえるという致命的な誤解を犯し歴史認識が欠落している、また判決では火傷の危険があるとされたが、弁護団が中国で行った手榴弾の水中爆発実験では火傷や被弾の危険がないことが確認されており、判決は事実認定の誤りを犯し、上官の当時の行動や矛盾に満ちた法廷供述を分析しなかった、判決は「歴史の無知から加害行為を無かったことにする」もので、南京大虐殺の証言や資料は無意味になり、それが原告の「まぼろし派」の狙いである、と批判した。 「ノーモア南京の会」の芹沢明男は控訴審判決は「国際的には全く受け入れられることのない不当な判決」であり、日本の司法とマスコミは権力から独立していない、諸外国で「ナチのホロコーストは無かった」 と発言すれば、その者は大抗議を受けて出版社は倒産するのに対して、日本のマスコミは、この判決によって「国際的にどのような反撃が生ずるかも分からず」記事を平気で載せていると批判した。また、中国側の主張する南京大虐殺犠牲者数30万人を超える署名を世界各国から集め、その力で、日本の南京大虐殺を「まぼろし化」しようとする勢力に打撃を与えると宣言した。 津田道夫は高裁判決日の12月22日は東京裁判でのA級戦犯死刑執行日であり、判決は「極めて政治的な判断にもとづくもの」とし、また日中戦争について、レーニンは日本を「日本帝国主義」としたことによって、日本側がすすめたのは不正義の侵略戦争であり、 中国側の抗日戦争は正義の戦争であったという評価がされなければいけないと主張した。津田はこの発言を1999年中国江蘇テレビの「地球村」番組ですると、拍手で迎えられた。 東史郎は「62年前に戦場で書いた日記が、 62年後に最高裁判所まで裁判を続けねばならなくなるとは想像もしなかった」、高裁判決が12月22日だったのは東条英機たちが絞首刑になった日を選んだためで、「私を戦犯として見ているのか」という気がした、「日本軍が中国に攻めていったのであって、 中国軍が日本に攻めてきて東京を占領したのではない」と述べた。
※この「高裁判決後」の解説は、「東史郎」の解説の一部です。
「高裁判決後」を含む「東史郎」の記事については、「東史郎」の概要を参照ください。
- 高裁判決後のページへのリンク