弘道会時代
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竹中正久を首領に据える四代目山口組が発足した1984年(昭和59年)6月、弘田の引退に際し弘田組の構成員らを伴い弘道会を結成、山口組直参に昇格した。元親分の弘田の一字と、その道を行く「道」の字から「弘道会」と命名したとされる。1989年(平成元年)5月、渡辺五代目体制の発足に伴い若頭補佐に就任し、ブロック制が導入されてからは中部ブロック長を兼任した。 1997年(平成9年)8月28日の宅見若頭射殺事件を受けた「新頂上作戦」で、護衛の配下組員に拳銃を持たせていたとする銃刀法違反容疑で同年11月に指名手配を受け、翌年6月に逮捕・起訴された。1999年(平成11年)7月、10億円の保釈金で保釈された。 2001年(平成13年)3月には大阪地方裁判所で無罪判決を受けたものの、2004年(平成16年)2月24日、大阪高等裁判所で懲役6年の逆転有罪判決を受け、上告。高裁判決後収監されたが、10億円の保証金で即日保釈された。
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