弘田組時代
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昭和40年代頃には、愛知県下に山口組系以外にも多くの暴力団組織があり、弘田組は山口組の直参組織ではあったが一地方組織にすぎず、他組織と衝突を繰り返しながら地盤を築いていった。弘田組内で副組長や若頭を歴任し抗争でも陣頭指揮を執っていたのが司であった。 1981年(昭和56年)7月23日、三代目山口組組長・田岡一雄が死去する。弘田武志は、田岡の後継者とされる山本健一と関係が近く、山本が四代目を継承すれば山口組に参加するはずだったが、山本も1982年(昭和57年)2月4日に病死。1984年(昭和59年)には四代目組長の座を巡り竹中正久と山本広が対立、弘田は山本広支持を表明していた。しかし司は「山口組に尽くすべき」と弘田を懸命に説得し、ついに弘田は一和会にも、四代目山口組にも加わらず引退を決意した。後日、自身の引退報告と、司に杯を下ろすよう竹中四代目に申し出、竹中はそれを了承した。
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