騎手としての特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 19:27 UTC 版)
吉永の騎乗の特徴として、馬群から離れた最後方追走からの追い込みや、逃げ戦法が目立ったことが挙げられる。とくに追い込みに関しては「吉永スペシャル」や、コニャックの等級をもじって揶揄的に「VSOP(=ベリー・スペシャル・ワン・パターン)」とも呼ばれた。しかし吉永自身は、数例の追い込み勝ちが「書く側にいる人の印象に止まっただけのことで、僕が勝った全レースの中でいうなら、一割にも満たない」と語っている。ただし、極端な作戦を好む性向は認めており、その理由として「僕は人に迷惑をかけるのがいやなんですよ。馬混みに入ると、アクシデントが起きやすいからね。だから、逃げか追い込みが好きなんです」とも語った。 また、キャリアを通じて減量に苦しみ続けた騎手としても知られる。引退時は公称で身長163センチメートル・体重55キログラムと、とくに体重面では騎手としては非常に重い部類だった。初騎乗時には、48キログラムの斤量に対して10日間をかけて減量し、なお1.5キログラムの斤量超過となって戒告を受けており、総じて斤量が軽くなる若い牝馬への騎乗は、キャリアを通じて少なかった。「雨の日に、帽子のひさしから落ちてくる雨水が本当にうまい」という吉永の言葉は、騎手の減量苦を象徴する言葉として書籍などで引用されている。
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騎手としての特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 09:24 UTC 版)
騎手時代は、馬を力強く追うことから「剛腕・郷原」と呼ばれた。野平祐二は郷原を評して「馬を追えることにかけては日本競馬史上最も秀でた騎手」と賞賛を送っている。また、郷原自身も騎乗技術の手本としたのは野平であり、異名から想起されるイメージとは異なり、リスクの少ない先行抜け出しを好んだ。フェアでスマートな騎乗が身上であり、郷原は「野平さんの全てを見習った」としている。郷原は馬を追う時に大切なこととして「空気抵抗を避ける、ハミを固定する、馬の動きを妨げない」とし、「腕っ節の強さはあまり関係ない」と「剛腕」の異名を自ら否定する発言を行っている。また、同じ関東所属の加賀とは自他共に認めるライバルであり、「加賀と郷原が同じレースで逃げ馬に乗っていたら、競り合って潰れるから馬券は買うな」という格言もあった。 騎手生活を通じて牝馬限定競走のビッグタイトルに縁がなく、その点では牝馬クラシック2勝を挙げている加賀と対照的で、1988年のオークスでサンキョウセッツに騎乗した際、フジテレビで実況を務めた堺正幸が勝ったコスモドリームをサンキョウセッツと誤認し「郷原やっと牝馬のタイトル、クラシックタイトルを制しました」と実況される椿事が発生している。牝馬での活躍がなかったことについて、郷原自身は「そんな異名(剛腕)が付いちゃったから、牝馬の依頼がなかったんじゃないかな。郷原を乗せたら馬が壊れるんじゃないかって」と受け流している。
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騎手としての特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:22 UTC 版)
コマツヒカリの日本ダービー、ヤマノオーの皐月賞、ヒロヨシのオークスが、いずれも重馬場での勝利であったこともあり、「雨の古山」の異名を取った。しかし古山自身は「私が走るんじゃないですよ。たまたま雨に強い馬に当たっただけです。私がやったのは前のレースや、本番の返し馬の時にどこを走らせればいいのか馬場状態をアタマに入れたことだけ。私はいつも逃げが少なく、後ろから行くほうでしたからね」と語っている。また自身が語っているように、比較的追い込み戦法を取ることが多かった。 ダービーニュース記者の山口進は、「たしかに、古山の追い込みは冴えていた。しかし、手堅い好位マークで行くというレースぶりはあまり見たことがない。(中略)追い出しのタイミングをつかむのがうまく、追い込んでチョイ足りないというレースというのはあまりみたことがなかった。見事なゴボウ抜きを演じてくれる人でもあった」と評している。
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騎手としての特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 06:26 UTC 版)
通算1000勝を越えているものの、年度別の勝利数でみると自己最多勝は58勝、30代後半以降の勝利数は概ね30勝前後と、「安定した中堅騎手」という実績ではあった。しかし大舞台での勝負強さと数々の印象的な騎乗もあって「華のある男」と評され、表面的な実績以上の強い存在感を放った。寺山修司はその印象について「パリのジゴロか伯爵夫人のつばめか、とでもいった身のこなしで、背も高くなかなか粋である。美しい馬に乗って華麗なレースをする、というのが小島太の特色であり、その点でも目立つ騎手であった」と評した。また境勝太郎は「勝負強いというのか、重賞や大レースでそつなく乗って、いい結果を出すところが大向こう受けした理由だろう」としている。 他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あった。江面弘也は小島を評して「負けっぷりがいい、とでも言うのだろうか。小島太という騎手は不思議と負けたときの印象が強い騎手だった。それゆえに罵声を浴びることも多く、おそらく歴代の名騎手と呼ばれる人たちのなかでは、最も罵声を浴びた騎手ではないか」と述べている。また小島自身、「負ける時には、負けっぷりよく負けた方がいいと思うんです。3着を狙うレースをするより、勝つか、ドンジリに負けるかというレース。やっぱり大事なのは勝つっていうことですからね」と述べている。 市丸博司は、「全くの推論に過ぎないが、小島太騎手には、熱狂的なファンと完全なアンチファン、その2種類しかいないような気がする。中間派というのはあまり聞いたことがない」と述べ、そうしたギャップが生じる理由について「素人目にも分かるぐらいの凡ミス」による敗戦と、その一方にあった「ほとんど天才的と言えるぐらい」の勝利によって、「ファンはどんどん熱狂的になり、アンチファンはますますキライになるのだろう」と論じている。こうした二極化については小島自身も「ファンからしたら、日本一下手だと思う奴が半分で……。(中略)まあ、上手いと言ってくれる奴も半分いるかも知れないけど、その位の評価だと思うよ」と語っている。 境勝太郎は小島の騎乗ミスの例として、サクラホクトオーが最後の直線で外埒沿いまで斜行して5着に敗れた菊花賞や、コーナーを曲がり切れずに競走を中止したサクラエイコウオーの新馬戦などを挙げ、「太のおかげで何億円損したか分からない」、「調教師席の僕が何度倒れそうになったことか」、「ファンにとっては話題の多い、見ていて楽しいジョッキーだったかもしれないが、馬を託すこちらとしてはたまったものじゃない」などと、その騎乗への苦言を残している。一方で好騎乗の代表例として挙げるのが、サクラユタカオーで制した天皇賞(秋)と、サクラチヨノオーで制した日本ダービーである。小島に対して辛辣な言葉が多い境をして、これらの競走については「彼の完璧な騎乗で勝たせてもらったと感謝している。どちらも馬の実力以上のレースだった」と賛辞を送っている。また境は小島の美点に騎乗フォームを挙げ、「いまだにあれだけの格好で乗れる騎手は、そうはいない。馬に柔らかく当たって、負担を掛けずに軽く乗っている姿は見ためにもきれいだった。『太のあの姿勢だけは日本一だぞ。せっかくそばで見ているのだから、ああいう風に乗れるように勉強しろよ』僕はいつも弟子たちにそう言ったものだ」と述懐している。
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騎手としての特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 03:39 UTC 版)
デビュー4年目の1987年に、年頭から4か月間未勝利を記録するスランプに陥った。このとき加藤から「追い込み馬でも構わないから、どの馬でもどのレースでもハナ行ってみろ」と助言され、以来逃げ戦法を得意としている。「逃げの中舘」とのイメージを完全に定着させたのは、大逃げで人気を博したツインターボとのコンビで、この頃には同じく逃げを得意とした2000勝騎手・増沢末夫になずらえ、「増沢二世」とも称された。また、増沢は福島を大の得意としていたが、やはり中舘も福島を得意としており、毎年福島開催の最多勝を獲得している。また、関西圏の中京・小倉での活動も増やしており、ローカルを主戦場として以降、勝利の半数以上は関西馬で挙げている。 ローカル開催での活躍が顕著である一方、重賞・GI級競走での勝利が、通算勝利数といった数字上の実績からは極端に少ないことも指摘される。これについて中舘は、「表舞台で重賞・クラシックに乗るか、それとも裏に回って数多く勝つか。ぼくは迷うことなく後者を選びました」と語っている。この背景には、2002年まで「1000勝騎手は調教師免許試験の第一次が免除される」という規定があったことが大きく関係しており、将来調教師を目指すに当たり「まさかその恩恵がなくなるとは思わなかったので」1000勝を達成するためにローカルを回るしかないと決意したという。大舞台を諦めてどのようにモチベーション保つのか、との問いに対しては、「確かにGIと未勝利戦での喜びの大きさは違うのかも知れないけど、どんなレースでもひとつ勝つと凄く嬉しいんです。乗り役は、1着でゴールを過ぎてから馬を止めるまでの間に、なんともいえない充実感にひたることができるんです」と語っている。
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