駅伝・トラック競技時代
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「福士加代子」の記事における「駅伝・トラック競技時代」の解説
青森県北津軽郡板柳町出身。中学時代はソフトボール部で、青森県立五所川原工業高等学校入学後に陸上競技を始める。 高校時代まではこれといった実績もなく、全国高等学校総合体育大会陸上競技大会(インターハイ)でも決勝にかろうじて残る程度(3000m12位)であったが、高校卒業後、ワコール監督の永山忠幸のスカウトにより2000年にワコールに入社する。入社してからは、トラックレースや駅伝などで頭角を現し始める。 2001年、3000m・5000m・10000mのジュニア日本記録を更新。同年12月の全日本実業団対抗女子駅伝競走大会では最長区間の3区を担当し、16人を抜いて一躍有名になる。 2002年2月の横浜国際女子駅伝で日本ナショナルチームに選出され、2区を10km30分で走り区間新記録をマークする。その年は大会の20回記念大会だったため「記念の節目にみんなで優勝しよう」を合言葉に10区を担当した渋井陽子(三井住友海上所属)とともにチームの優勝に貢献した。 同年6月の日本陸上競技選手権大会で、5000mと10000mでともに初優勝を果たし、2種目制覇を成し遂げ、釜山アジア大会の代表に選ばれた。7月20日には5000mで14分55秒21の日本新記録を樹立する。この年は3000mでも8分22秒0の日本新記録を樹立したが、この記録は2020年に田中希実(豊田自動織機)に破られるまで18年間保持した。 同年10月に行われた釜山アジア大会では、5000mと10000mともに銀メダル(両種目とも金メダルは孫英傑)。しかし10000mでは自己ベストを一気に50秒も縮める30分51秒81の記録でゴール、日本女子2人目となる31分突破(日本人初の31分突破は渋井陽子で30分48秒99)となる。また5000mでは自身の日本記録を0秒02更新する、14分55秒19をマークした。 同年12月に行われた、全日本実業団対抗女子駅伝競走大会では3区10kmの区間で快走、沿道の観客に対して福士は時折笑顔を見せながら走っていた。しかし、次の中継所に間もなく到着する終盤で、すぐ後ろを走っていた羽鳥智子(第一生命保険)と足が絡まって転倒し、左膝を強打する。その後足をひきずりながら走り続け、区間賞を獲得したものの、膝の靱帯を切る大けがを負った。 2003年2月、福士の故郷で行われた青森冬季アジア大会で、膝のけがをおして最終聖火ランナーを務める。約半年近くはけがの治療に専念していたが、6月の日本選手権10000mでは、終盤スパートして独走、復活の優勝を果たした。その後、世界陸上競技選手権大会の長距離走代表として初出場を決める。 同年8月、世界陸上パリ大会では、5000mと10000mに出場したが、5000mは予選敗退、10000mは11位に終わった。 2004年1月11日に京都市で行われた第22回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、ふるさとの青森県代表として最終の9区10kmを走り、30分52秒の区間最高記録をマークして、1997年に熊本県代表の川上優子(当時沖電気宮崎)がマークした31分01秒の区間記録を7年ぶりに塗り替えた。 同年6月4日の日本選手権、10000mではレース前半で福士が飛び出してから、その後独走となる。しかし終盤に入るとややペースが落ちてゆき、ゴール直前で2位の田中めぐみ(現姓:大島。しまむら)や3位の弘山晴美(資生堂)らに猛迫を受けるもかろうじて逃げ切り、31分32秒09のゴールタイムで優勝、初のオリンピック代表内定となった。その2日後、6月6日の5000mでも15分05秒07の記録で優勝を果たす。 同年8月27日、五輪初出場となったアテネオリンピックは、5000mも出場可能だったが回避し、10000mの1種目のみに絞って出場となる。しかし、レース前に発生した足の故障のために全く力を発揮できず、同じ日本代表の田中めぐみ(13位)と弘山晴美(18位)からもかなり遅れて27人中26位でゴール。ゴールタイムは33分48秒66と自己ベスト記録より3分近くも悪く、先頭から2周周回遅れだった。 2005年6月の日本選手権では5000m・10000mともに優勝を果たし、世界陸上ヘルシンキ大会代表に選出。同大会には5000mと10000mの2種目で出場するも、10000mでは前回に続き11位に留まり、5000mは決勝進出を果たすものの12位、2種目ともに8位内の入賞ラインには至らなかった。この年は5000mで自己の記録を更新する14分53秒22を記録。この記録は、2020年東京オリンピック決勝で廣中璃梨佳(日本郵政グループ)が14分52秒84を記録するまで約16年間保持した。 2006年1月15日に京都市で行われた第24回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、京都府代表として最終の9区10kmを走り、京都府チームとしての過去最高記録で優勝を果たしている。3週間後の2月5日に香川県で行われた第60回香川丸亀ハーフマラソンでは、初のハーフマラソンにもかかわらず、日本記録をもっていた野口みずき(シスメックス)とトップを争い、1時間7分26秒の日本新記録で優勝した。 同年9月のワールドカップ陸上アテネ大会にアジア代表として出場。3000mで5位、5000mでは銅メダルを獲得。12月のドーハアジア大会10000mでは、31分29秒38の記録で同大会初優勝を果たす(3位は当時トヨタ車体所属の大南博美)。1998年バンコクアジア大会の川上優子以来、2大会ぶりの金メダルをもたらした。 2007年2月4日に行われた第61回香川丸亀ハーフマラソンに2年連続で出走。自身の持つアジア・日本記録の更新はならなかったが、1時間8分00秒の記録で2連覇を達成した。 同年4月と5月には、後輩の湯田友美とともに、エチオピアでの合宿に挑戦するという新しい試みをおこない、ティルネシュ・ディババやメセレト・デファーらのナショナルチームとアップをともにしたこともあった。このとき会ったハイレ・ゲブレセラシェからは「トラック練習のキツサを考えれば、マラソンはエンデュランス(引用者注:耐久)だけ。怖いものなんか全くない」とマラソンへの転向を勧めるアドバイスを受けた。 同年6月29日の日本選手権10000mでは、7000m辺りからスパートして独走、この種目で2002年からの6連覇を達成。同年8月開催の世界陸上大阪大会の女子長距離走の代表内定を決めた。その2日後の7月1日に行われた5000mでは、スタート直後に転倒するアクシデントにも全く動じず、その後笑顔を振りまく余裕も見せ、10000m同様に後半独走となる圧勝だった。 地元開催となった世界陸上大阪大会の本番、開幕日だった同年8月25日の10000mでは、レース中盤辺りで靴が脱げかけてしまい、立ち止まって履き直すハプニングが発生する。その後積極的に先頭へ立つ場面もあったが、終盤でペースが落ちて結局10位に甘んじた。9月1日の5000m決勝ではスタートから果敢に先頭に立つも、3000m地点で後続に飲み込まれてしまい、その後は離され14位に終わった。 12月の日本体育大学記録会にて姿を見せたものの、報道陣が多いとの理由により、出場をキャンセルした[要出典]。
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