駅伝・トラック競技時代とは? わかりやすく解説

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駅伝・トラック競技時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 03:30 UTC 版)

福士加代子」の記事における「駅伝・トラック競技時代」の解説

青森県北津軽郡板柳町出身中学時代ソフトボール部で、青森県立五所川原工業高等学校入学後陸上競技始める。 高校時代まではこれといった実績もなく、全国高等学校総合体育大会陸上競技大会インターハイ)でも決勝かろうじて残る程度(3000m12位)であったが、高校卒業後、ワコール監督永山忠幸のスカウトにより2000年ワコール入社する入社してからは、トラックレース駅伝などで頭角現し始める。 2001年3000m5000m10000mジュニア日本記録更新同年12月全日本実業団対抗女子駅伝競走大会では最長区間3区担当し16人を抜いて一躍有名になる2002年2月横浜国際女子駅伝日本ナショナルチーム選出され2区を10km30分で走り区間新記録マークする。その年は大会20記念大会だったため「記念節目みんなで優勝しよう」を合言葉10区担当した渋井陽子三井住友海上所属とともにチーム優勝貢献した同年6月日本陸上競技選手権大会で、5000m10000mでともに初優勝果たし2種制覇成し遂げ釜山アジア大会の代表に選ばれた。7月20日には5000m145521日本新記録を樹立する。この年3000mでも8分22秒0の日本新記録を樹立したが、この記録2020年田中希実豊田自動織機)に破られるまで18年保持した同年10月行われた釜山アジア大会では、5000m10000mともに銀メダル(両種目とも金メダル孫英傑)。しかし10000mでは自己ベスト一気50秒も縮め305181記録ゴール日本女子2人目となる31分突破日本人初の31分突破渋井陽子304899)となる。また5000mでは自身日本記録を0秒02更新する145519マークした同年12月行われた全日本実業団対抗女子駅伝競走大会では3区10km区間快走沿道観客に対して福士時折笑顔見せながら走っていた。しかし、次の中継所間もなく到着する終盤で、すぐ後ろ走っていた羽鳥智子第一生命保険)と足が絡まって転倒し、左膝を強打するその後足をひきずりながら走り続け区間賞を獲得したものの、膝の靱帯を切る大けが負った2003年2月福士故郷行われた青森冬季アジア大会で、膝のけがをおして最終聖火ランナー務める。約半年近くはけがの治療専念していたが、6月日本選手権10000mでは、終盤スパートして独走復活優勝果たしたその後世界陸上競技選手権大会長距離走代表として初出場決める。 同年8月世界陸上パリ大会では、5000m10000m出場したが、5000m予選敗退10000m11位に終わった2004年1月11日京都市行われた第22回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、ふるさと青森県代表として最終9区10km走り3052秒の区間最高記録マークして1997年熊本県代表の川上優子当時沖電気宮崎)がマークした31分01秒の区間記録7年ぶりに塗り替えた同年6月4日日本選手権10000mではレース前半で福士飛び出してから、その後独走となる。しかし終盤に入るとややペース落ちてゆき、ゴール直前2位田中めぐみ現姓大島しまむら)や3位弘山晴美資生堂)らに猛迫を受けるもかろうじて逃げ切り31分3209のゴールタイムで優勝初のオリンピック代表内定となったその2日後、6月6日5000mでも150507記録優勝を果たす。 同年8月27日五輪初出場となったアテネオリンピックは、5000m出場可能だった回避し10000m1種目のみに絞って出場となる。しかし、レース前発生した足の故障のために全く力を発揮できず、同じ日本代表田中めぐみ13位)と弘山晴美18位)からもかなり遅れて27人中26位でゴール。ゴールタイムは334866自己ベスト記録より3分近く悪く先頭から2周周回遅れだった。 2005年6月日本選手権では5000m10000mともに優勝果たし世界陸上ヘルシンキ大会代表に選出同大会には5000m10000m2種目で出場するも、10000mでは前回続き11位に留まり5000m決勝進出を果たすものの12位、2種目ともに8位内の入賞ラインには至らなかった。この年5000m自己の記録更新する145322記録。この記録は、2020年東京オリンピック決勝廣中璃梨佳日本郵政グループ)が145284記録するまで約16年保持した2006年1月15日京都市行われた第24回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、京都府代表として最終9区10km走り京都府チームとしての過去最高記録優勝果たしている。3週間後の2月5日香川県行われた第60回香川丸亀ハーフマラソンでは、初のハーフマラソンにもかかわらず日本記録をもっていた野口みずきシスメックス)とトップ争い1時間7分26秒の日本新記録優勝した同年9月ワールドカップ陸上アテネ大会アジア代表として出場3000mで5位、5000mでは銅メダル獲得12月ドーハアジア大会10000mでは、31分2938記録同大初優勝を果たす(3位当時トヨタ車体所属大南博美)。1998年バンコクアジア大会川上優子以来、2大会ぶりの金メダルもたらした2007年2月4日行われた第61回香川丸亀ハーフマラソン2年連続出走自身の持つアジア日本記録更新はならなかったが、1時間8分00秒の記録2連覇達成した同年4月5月には、後輩湯田友美とともにエチオピアでの合宿挑戦するという新しい試みおこないティルネシュ・ディババメセレト・デファーらのナショナルチームアップをともにしたこともあった。このとき会ったハイレ・ゲブレセラシェからは「トラック練習のキツサを考えればマラソンエンデュランス引用者注:耐久)だけ。怖いものなんか全くない」とマラソンへの転向勧めるアドバイス受けた同年6月29日日本選手権10000mでは、7000m辺りからスパートして独走、この種目2002年からの6連覇達成同年8月開催世界陸上大阪大会女子長距離走の代表内定決めたその2日後の7月1日行われた5000mでは、スタート直後転倒するアクシデントにも全く動じずその後笑顔振りまく余裕見せ10000m同様に後半独走となる圧勝だった。 地元開催となった世界陸上大阪大会本番開幕日だった同年8月25日10000mでは、レース中盤辺りで靴が脱げかけてしまい、立ち止まって履き直すハプニング発生するその後積極的に先頭へ立つ場面もあったが、終盤ペース落ちて結局10位に甘んじた9月1日5000m決勝ではスタートから果敢に先頭に立つも、3000m地点後続飲み込まれてしまい、その後離され14位に終わった12月日本体育大学記録会にて姿を見せたものの、報道陣が多いとの理由により、出場キャンセルした[要出典]。

※この「駅伝・トラック競技時代」の解説は、「福士加代子」の解説の一部です。
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