電力国家管理と解散
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1927年の万瀬水力電気合併以後、昭和恐慌の影響を受けて農村不況が長期化したことから、日本水電の電灯・電力需要は停頓した。増加傾向に転じるのは1935年(昭和10年)ごろからで、1938年(昭和13年)下期には電灯数が23万9,374灯、小口電力供給が1万417馬力(約7,662キロワット)、電熱その他の供給が678キロワットとなった。大口電力供給については産金業の活性化で一足先に1934年上期から著しく増加し、1938年下期には1万9,795キロワットまで増加した。主な供給先として、親会社日本窒素肥料(1万キロワット)、三井鉱山(2,300キロワット)、鹿児島電気(1,840キロワット)、鯛生産業(1,600キロワット)、薩摩興業(1,300キロワット)が挙げられる。またこの間の1936年(昭和11年)5月、資本金を2000万円へ増資している。 日中戦争開戦後の1938年(昭和13年)、政府が新設の国策会社日本発送電を通じて全国の発電・送電を管理するという電力の国家管理を規定した「電力管理法」が成立し、全国の電気事業者から主要な火力発電設備・送電設備・変電設備を出資させて翌1939年(昭和14年)4月に日本発送電が発足した(第1次電力国家管理)。出資者は33事業者に及んだが、これに日本水電は含まれていない。次いで1941年(昭和16年)4月に電力管理法施行令が改正され、翌1942年(昭和17年)4月までに出力5,000キロワット超の水力発電設備も各事業者から日本発送電へ出資された(第2次電力国家管理)。ここでも日本水電は出資者に含まれておらず、日本水電から日本発送電へ移管された設備はない。 しかし第2次国家管理は配電統制にも及んでおり、1941年8月に「配電統制令」が施行され、全国を9ブロックに分割し地区ごとに国策配電会社を新設、これに既存配電事業を統合することとなった。九州地方では九州7県に沖縄県を加えた地域の配電事業を九州配電株式会社に統合する方針とされ、日本水電と九州電気(旧・熊本電気)・九州水力電気・東邦電力の4社が統合に参加するよう当局から命令をうけた。日本水電が命令されたのは、鶴田発電所をはじめとする発電所15か所、送電線45路線、変電所23か所、それに区域内の配電設備・需要者屋内設備・営業設備一切の出資である(受命後に発電所が1か所完成している)。 国主導の事業再編が進む最中の1939年12月、日本水電は小規模事業者の笠沙電気株式会社(旧・西加世田水電)より事業を譲り受けていた。笠沙電気は川辺郡笠沙村片浦(現・南さつま市)にあった会社で、1920年(大正9年)9月に設立。資本金は12万円で、日本水電常務の上野喜左衛門が同社社長を務めた。事業は小規模で1938年下期時点の同社電灯数は3,125灯、電力・電熱供給は50キロワットに満たない。次いで1941年6月、株主総会で古仁屋水電株式会社から営業・財産の一切を譲り受けると決定した。同社は離島部の大島郡古仁屋町(現・瀬戸内町)にあった小事業者で、日本水電専務の井上多助が社長であった。ただし古仁屋水電の統合は実施されていない。さらに配電統制令公布後の同年9月1日、兼営のガス事業を新設の日本瓦斯株式会社(日本ガス)へと分離し、事業譲渡を完了している。 1942年4月1日、九州配電をはじめ全国9つの配電会社が発足する。九州配電への出資評価額は2058万5420円で、債務承継額を控除した1541万996円19銭分の対価として九州配電額面50円払込済み株式30万8219株と現金46円19銭が割り当てられた。電気供給事業設備を出資し終えた日本水電は、その直後、4月30日付で解散した。解散時の社長は野口遵。専務を務めた井上は九州配電監事(監査役に相当)、常務を務めた上野は同理事(取締役に相当)へそれぞれ転じた。
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電力国家管理と解散
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「大淀川水力電気」の記事における「電力国家管理と解散」の解説
逓信省の資料によると、1937年12月末時点で大淀川水力電気は大淀川第一発電所の発生電力のうち300キロワットを球磨川電気へ供給し、残りの1万4,700キロワットと大淀川第二発電所の発生電力3万キロワットを九州電力へ供給。その九州電力は球磨川電気・熊本電気・九州共同火力発電からの受電を加えて最大6万6,900キロワットを受電し、東邦電力(三池変電所にて最大2万キロワット)・九州共同火力発電(港発電所にて最大1万1,600キロワット)・電気化学工業大牟田工場(最大3万3,000キロワット)・三井鉱山三池鉱業所(最大1万6,000キロワット)へと供給していた。 翌1938年(昭和13年)、政府が新設の国策会社日本発送電を通じて全国の発電・送電を管理するという電力国家管理を規定した「電力管理法」が成立し、全国の電気事業者から主要な電力設備を出資させて翌1939年(昭和14年)4月1日に日本発送電が発足した(第1次電力国家管理)。このとき日本発送電の管理対象とされた設備は、出力1万キロワット超の火力発電所や、最大電圧100キロボルト以上の送電線とそれに接続する変電所などで、これに従い九州電力では110キロボルト送電線の高岡線(大淀川第二発電所 - 第一発電所間)・三池線(大淀川第一発電所 - 三池変電所間)と大牟田地区の66キロボルト送電線4路線、人吉・三池・横須(大牟田市)の3変電所を日本発送電の設立時に出資するよう逓信省より命ぜられた。出資設備の評価額は451万1090円50銭で、出資の対価として九州電力には日本発送電の額面50円払込済み株式9万221株(払込総額451万1050円・出資対象33事業者中22位)が交付されている。 全設備を日本発送電へと出資した九州電力は、1939年4月30日付で解散した。次いで同年7月20日、所期の目的を達成したとして大淀川水力電気も解散、水利権と事業一切を電気化学工業が引き継いだ。 その後1940年代に入ると電力国家管理は強化されていき、1941年(昭和16年)4月の電力管理法施行令改正に伴い翌1942年(昭和17年)4月までの間に出力5,000キロワット超の水力発電設備も各事業者から日本発送電へ出資された(第2次電力国家管理)。電気化学工業もこの出資対象事業者に指定され、大淀川水力電気から譲渡された大淀川第一・第二両発電所を日本発送電へ出資するよう1941年5月に電気庁より命ぜられた。出資命令に対し電気化学工業では、電源を失うことになる大牟田工場は存続できなくなり国家的見地から見ても得策でない、と訴えたが幹線に接続する発電所であるとされ聞き入れられなかったという。1941年10月1日、両発電所は日本発送電へ出資された。出資設備の評価額は1629万12円50銭で、出資の対価として電気化学工業には日本発送電の額面50円払込済み株式32万5800株(払込総額1629万円・出資対象27事業者中11位)が交付されている。
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電力国家管理と解散
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以下、沿革のうち1942年の会社解散に至る経緯について記述する。
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電力国家管理と解散
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以下、沿革のうち1942年の会社解散に至る経緯について記述する。
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