電力国家管理の実現
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「日本発送電#国家統制への道程」も参照 大同電力の歴史は終始一貫した抗争の歴史であると評されたが、最後の相手となったのが日本政府が推進した「電力国家管理」政策であった。この政策の影響を受けて、大同電力は解散への道を歩んだ。 電力国家管理政策の起源は「電力国営論」である。明治末期ごろから存在し、1918年(大正7年)前後には時の逓信大臣野田卯太郎によって提唱されるなど、しばしば争点となっていたが、そのたびに現実化に至ることはなかった。時代が下って昭和に入ると、国営論は台頭しつつあった軍部や革新官僚によって脚光を浴びるようになる。1935年(昭和10年)から翌年にかけて、岡田啓介内閣が設置した内閣審議会・内閣調査局(後の企画院)で推進に向けた動きがあり、岡田内閣の後1936年(昭和11年)3月に広田弘毅内閣が発足すると、逓信大臣に国営論者の頼母木桂吉が入って逓信省が国営論改め電力国家管理政策を主導するようになった。民間電力会社に発送電設備を出資させて特殊会社を新設し、同社を通じて政府自ら発送電事業を経営する、という「民有国営」の方向で国家管理政策は具体化され、10月には逓信大臣より提案された「電力国策要綱」が閣議決定されるところまで進んだ。 電力国策要綱を法案化した「電力管理法」など5法案が1937年(昭和12年)1月に帝国議会へと上程されたが、直後に広田内閣が総辞職したため中断、代わって発足した林銑十郎内閣は上程中の全案件を撤回して電力国営案を再上程しない方針を決めたため、またしても実現は見送られる結果となった。しかし同年6月、林内閣にかわって第1次近衛文麿内閣が成立すると、逓信大臣に就任した民政党の永井柳太郎により電力国家管理政策は再び前進し始める。頼母木案と異なり永井案は発送電設備のうち水力発電所を出資から除外する方針となるなど修正が加えられ、新しい「電力国策要綱」が12月に閣議決定された。 翌1938年(昭和13年)1月、要綱に基づく「電力管理法」など4法案が議会に上程され、審議難航の末に会期切れ直前の3月26日に可決、1935年以来の電力国家管理問題がここに決着した。正式決定された電力国家管理政策は、 既存の電気事業者から火力発電所と主要送電線を現物出資させて国策会社「日本発送電株式会社」を設立する。 発電事業者からの発生電力の買い上げ料金、配電事業者への電力卸売り料金、発送電設備の建設方針など、日本発送電の重要な経営政策決定を政府が規制することによって、電気事業を政府が管理する。 という「民有民営」の方針をとった。4月5日に電力管理法および関連法が公布されて以降、国家管理の実施に向けた準備が進められ、翌1939年(昭和14年)4月1日をもって日本発送電が発足、電力国家管理が実行に移されることとなった。
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