電力国家管理に伴う解散
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 15:57 UTC 版)
「中央電力 (1938-1942)」の記事における「電力国家管理に伴う解散」の解説
日中戦争下、当時の第1次近衛文麿内閣によって電力の国家管理政策は具体化され、1938年4月に政府による発電・送電事業の管理を盛り込んだ「電力管理法」の公布に至る。それを受けて発送電の管理を行う企業として国策会社日本発送電株式会社が翌1939年4月に発足し、国内の主要な電力設備を民間計33事業者から接収した。だがこれら一連の第1次電力国家管理は不徹底(例えば発電所の出資は火力発電所のみである)に終わったとみなされ、第2次近衛内閣では水力発電所の出資と配電事業の統合を盛り込んだ第2次電力国家管理案の策定が進められた。そして政府は1941年(昭和16年)4月に電力管理法施行令を改正し、5月に計27事業者、8月に計23事業者に対して日本発送電へ水力発電所を含む電力設備の出資を命じる。加えて配電事業については1941年8月に「配電統制令」を公布し、全国を9地区に分割して各地区に1社ずつ国策配電会社を設立、配電会社に各地区の民間事業者を統合する方針を打ち出した。 1939年に日本発送電が発足した際にはまだ設備の出資者に中央電力は含まれなかったが、1941年10月1日に実施された第1次出資、および1942年(昭和17年)4月1日に実施された第2次出資では日本発送電への設備出資を命じられた。出資設備は、第1次出資では生田発電所、第2次出資では駒場・阿知川・米川・越戸の4発電所と米川・阿知川両発電所を結ぶ阿知川米川送電線である。出資設備評価額と出資の対価である日本発送電株式(額面50円払込済み)交付数は、第1次出資分が874万2746円・17万4854株、第2次出資分が611万7223円・12万2344株であった。 続く配電統制令では、1941年9月、国策配電会社中部配電株式会社の設立を指令された。中央電力が出資すべきとされたのは見代など計6発電所と送電設備2路線、変電所2か所、それに長野県・静岡県・愛知県にあった配電設備・需要者屋内設備・営業設備の一切である。統合は1942年4月1日付で実施に移された。出資設備の評価額は210万7853円であり、その対価として中部配電の額面50円全額払込済み株式4万2157株(払込総額210万7850円)と現金3円の交付をうけている。 電力国家管理の一方で、1942年3月13日、臨時株主総会において中央電力は会社解散を議決する。そして日本発送電への第2次出資と中部配電への設備出資の日付である4月1日付で解散した。末期の経営陣は代表取締役会長桜木亮三、代表取締役社長兼専務松本庸之助であったが、2人とも解散に伴い中部配電理事へと転じている。
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