電力国家管理強化の動きと反対運動
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「東邦電力」の記事における「電力国家管理強化の動きと反対運動」の解説
電力国家管理の中心として1939年4月に発足した日本発送電であったが、発足早々に異常な渇水が襲い、戦時下の石炭不足・炭質低下も重なって深刻な発電力不足に陥った。結果、同年8月から配電事業者への供給割当制限が始まり、10月には国家総動員法に基づき電力消費を制限する「電力調整令」が施行されるという状況に至った。豊富かつ低廉な電力供給をうたって始まった電力国家管理体制が早々に躓いた形となったが、日中戦争が長期化する中で「新体制」への移行が進められる当時の状況下にあっては国家管理政策の見直しではなく政策をより強化することによって電力問題を解決しようとする動きに結び付いた。 1940年(昭和15年)7月、第2次近衛内閣が成立すると関西財界出身の村田省蔵が逓信大臣に就任した。以後政府は、日本発送電へ水力・火力発電設備を一元的に掌握させるという電力国家管理の強化(第2次電力国家管理)と、地域別に特殊会社を新設し全配電事業を統合するという配電統制の実施の2点を急速に具体化させ、9月27日にその旨を盛り込んだ新しい「電力国策要綱」を閣議決定した。要綱に基づき逓信省は「配電管理法」「配電株式会社法」などの法案を準備したが、翌1941年(昭和16年)1月に政府が審議長期化が見込まれる法案の国会提出を避ける方針を決めたため法案は撤回、これらは国家総動員法の適用によって実施されることとなった。 こうして電力国家管理の強化へと流れる中、東邦電力社長の松永安左エ門は反対運動の急先鋒となった。松永は1937年の「頼母木案」・1938年の「永井案」時代から反対運動を展開しており、当時の反対論の要点は、水力発電・火力発電・送電線が一体となって機能している現状を無理に分割すれば電力会社の有機性を損ない、企業の資金調達を妨害して進行中の発電所建設に影響を与える恐れがある、そしてそれは電力飢饉を惹起し豊富・低廉な電力供給を目指すという電力国家管理体制の目的に反する結果を招く、というものであった。だが1937年7月に日中戦争が始まったという情勢の下では反対運動が広がるに至らなかった。次いで第2次電力国家管理の動きが強まると、松永は反対派の急先鋒として強硬な反対運動を展開した。松永の反対論は、電力飢饉が現実のものとなったことを踏まえ、配電業者を解体しようとすれば日本発送電と同様の事態に陥り国家の生産力を傷つける、日本発送電の機能不全はそもそも民有国営体制が不適切なためであり民有民営を原則とすべき、というものであった。 第2次電力国家管理への反対論は松永以外からも唱えられたが、業界団体である電気協会内部でさえ多数派とはならなかった。そうした中、1940年11月13日、干渉・圧迫が表面化し自身の理想を実現できなくなった松永安左エ門は社長を辞して会長に退き、代表取締役副社長の竹岡陽一が後任の第3代社長に就任した。1941年1月、政府の国会審議長期化回避の決定を受けて、電気協会は政府案への反対姿勢を撤回し官民協力して生産拡充に努める方針を固めた。それでも松永は反対論を唱え続けたが、3月になって電気庁長官より「一部少数事業者」が電気協会の地位・設備を利用して国策に反対する策動を行っているのは遺憾であり善処するように、という旨の依命通牒が出されるに至り、電気協会では政府と協力する意向を再確認した。こうした政府の対応もあって松永の反対運動は失敗に終った。その後1941年8月25日、松永は東邦電力の代表取締役を辞任し単に取締役会長となった。
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