国家統制への道程
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1926年、その後の河川行政を大きく転換させる一つの私案が発表された。東京帝国大学教授で内務省土木試験所長の職に就いていた物部長穂による河水統制計画案がそれである。物部はこの案において、「治水(洪水調節)と利水(上水道、農地灌漑、水力発電)を総合的かつ効率的に行うためには多目的ダムによる河川開発が最も有用であり、これを有効に行うためには水系一貫の開発が望ましい」と主張した。これは後に河川総合開発事業と名を改め、現在に至るまで日本における河川行政の基本となっている。さらにこの中で物部は、「これら河川施設を有機的に運用するには、公平な立場に立脚している河川事業者、すなわち国家による統制が望ましい」とした。この河水統制計画案は、内務省内務技監で当時日本における河川行政の第一人者であった青山士(あおやま・あきら)によって採り上げられ、以後内務省はこの物部案を国策として強力に推進する姿勢に転じた。同時期、鶴見騒擾事件を始めとした無秩序で激烈な市場争いを繰り広げていた電力業界に対し、逓信省官僚の中には「民間には電気事業を任せられない」と考える者も出始めていた。 1927年(昭和2年)、電力業界を監督する逓信省電気局は、新進気鋭の官僚9名を選び内部組織である「臨時電気事業調査部」を設置、今後の電力行政について新たなる方針を検討するよう指示した。そして翌1928年(昭和3年)の秋に最終結果が答申された。その内容とは、後の日本発送電につながる半官半民の国策会社を設立してそこに電力開発を全て委ね、資源の適正開発と低廉な電気料金による安定供給を行うことが重要であるというものであった。逓信省はこの答申をさらに検討した上、1932年(昭和7年)4月に電気事業法を改正した。12月には施行にともない、電力資本の利益に寛容な電気委員会を設置した。1937年(昭和12年)より第三次発電水力調査を実施したが、その根幹にあったのは、先に物部が発表し内務省が国策とする河水統制計画に則った、水系一貫の多目的開発に沿った水力発電開発調査であった。このころから次第に、内務官僚や逓信官僚は、重要な電気事業を河川事業と同様に国家管理として統制するという方向性を持ち始めていた。 当時日本は満州事変の勃発以降、軍部が次第に台頭していった。特に台頭していたのは「統制派」と呼ばれるグループであった。彼らは自由主義経済を否定して国家による統制経済を行うことで戦時体制を構築・強化して行くことを主眼においていた。五・一五事件や二・二六事件を経て対立する皇道派を粛清することで実権を獲得した東條英機ら統制派の面々は、私企業の利益より公益を優先することを主張していた企画院や内務・逓信官僚などと結託し、本格的な統制経済を構築し始めた。そしてその標的となったのが電気事業であり、1938年(昭和13年)、第73回帝国議会に「電力国家統制法案」が上程されたのである。
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